森鴎外の小倉左遷時代
明治33年6月8日、森鴎外は陸軍軍医監に任ぜられ、小倉の第十二師団の軍医部長として赴任する。彼にとっては不本意な勤務で、軍内部の政治的抗争が関係しているともされ、鴎外のいわゆる「小倉左遷時代」と称されている。鴎外自らもこれを左遷と意識していたが、この小倉時代は文学者鴎外として大きな転機となる重要な位置を占める。
鴎外左遷の真相は謎であるが、一説によると東京の陸軍省の小池正直医務局長と鴎外とは同期のライバルであり、軍隊の衛生事業の改良問題で対立していたという。鴎外は軍にありては、衛生及び防疫を指導しており神経質なほどに細かかった。鴎外はこの左遷を怒って、一旦は軍職を退こうと決意したが、親友の賀古鶴所の忠言によって思いとどまったともいわれている。
小倉に着いた鴎外は、鍛冶町87の借家に住む。1年半後に新免町に転居。明治33年1月に「鴎外漁史とは誰ぞ」を発表して、文学的沈黙を宣言する。小倉時代、審美学、仏教研究、クラウゼヴッツ戦争論翻訳、「即興詩人」翻訳完成、フランス語、サンスクリット語、ロシア語の独習などの学究的生活を送り、他日の文学的復興に備えた。私生活でも明治23年に最初の妻登志子と離婚して以来11年間独身生活であったが、明治35年1月、判事荒木博臣の長女茂子(志け)と結婚する。同年3月14日には東京の第一師団の軍医部長に転任する。かくして鴎外の小倉時代は2年10ヵ月で終わる。
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初めまして、おはようございます。
明治の日本が西欧諸国に追いつくためには、発展を担う人材の育成が急務である事から、その様な貴重人材はまだまだ少なかったために、一方では、実質的に発展を担う優秀な人材を生み出すのですが、他方では、そのエリートの特権的な地位によって堕落する人材をも数多く生み出しました。
明治十七年(1884年) 22歳の時、国から陸軍衛生制度と軍陣衛生学研究のため、ドイツ留学を命ぜられ、明治十九年(1886年)、ドレスデンでの研究を終えた、鷗外は、三月にミュンヘンに移り、大学衛生部に入っています。この時期書かれた「うたかたの記」では、 初期の鴎外の感じるエリートらしさへの素朴な満足感が見られるのですが、その後は変貌していった様に思えます。
エリートやブルジョアは上からの改革を担う力をもっていたのですが、鴎外はその役割を果たすのではなく、その役割に対立しつつ、エリート内部で生ずる道徳的な批判から、自身の地位と名誉のためにも独自の道徳的な精神をまとめあげた事は、この小倉時代の影響からなのでしょうか。
投稿: SUKIPIO | 2006年9月28日 (木) 10時41分
とても深いご考察、ありがとうございます。鴎外は内に秘められた苦闘が複雑である分、研究対象としては興味あります。同郷の先輩である(石見国津和野)西周やほかの留学生についても調べるつもりです。留学生でも明治初期と中期では、エリート意識の変化がみられるかもしれません。
投稿: ケペル先生 | 2006年9月28日 (木) 15時15分