シェーンブルン宮殿とマリア・テレジア
ハプスブルク家の記念碑とも呼べるシェーンブルン宮殿は、もともと庭園とぶどう園のあるバイエル家の館だった。カッターブルクと名づけられたその豪華な館がハプスブルク家の持ち物になったのは1569年のこと。それから、狩猟愛好家のマキシミリアン2世が周辺の土地を買い取り、狩りの館へと拡張したのが、宮殿の起源である。
その息子マティアス皇帝が狩猟の途中、この地で美しい泉(シェーナー・ブルネン)を発見し宮殿の名となった。
その後、宮殿は狩猟などの豪華な社交の場となり、フェルディナント2世、3世の時代に最初の黄金時代を迎えたが、激動する歴史のなかで、焼きはらわれることになる。修復もおこなわれたが、実際に家庭生活のための居城としたのは女帝マリア・テレジアである。
改装工事は1744年から始まり、5年の歳月をかけて1749年に完成した。担当したのはウィーンの建築家ニコラウス・パカッシ。ロココ様式で改装された宮殿内部と増築部分は、とりわけパカッシの最高傑作といわれる。こうして改装されたシェーンブルン宮殿は、宮廷生活に再び黄金時代を迎えいれた。
その後、シェーンブルン宮殿は、ナポレオンが一時的に居住したこともあったが、フランツ・ヨーゼフ1世が皇妃エリザベートを迎え入れるまでは、放置されていた。
エリザベートとの婚礼を機に、第二次のロココともよべるスタイルで改修された宮殿は、再び華やかさを取り戻したように思えた。しかし、第一次世界大戦終結とともに帝国は崩壊し、オーストリア最後の皇帝カール1世が、シェーンブルン宮殿内の青のサロンで国事放棄の宣言に署名し、650年にわたる長い王家の歴史に終止符が打たれた。
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