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2006年9月24日 (日)

「後世への最大遺物」内村鑑三

   われわれは、この世に生まれてきたからには、何か遺物を残していきたいというのが人情である。内村鑑三は、その遺物として、第一に財をたくわえてこれを社会事業に残すこと、第二にたとえば土木事業のような事業を残すこと。第三に思想、著述などを残すことをあげ、しかしそれらはだれにでもできる遺物とはいえない。だれにでもでき、利益ばかりあって害のない遺物、それは「高尚な勇ましい生涯」だというのが『後世への最大遺物』の論旨である。これは明治27年7月、箱根芦ノ湖畔で、キリスト教の第6回夏期学校が開かれたときの講演である。内村の講演はいつも満員であったという。講演は全身全霊、熱血のほとばしるようであった。正宗白鳥の言葉を借りれば、「植村正久先生の説教を聴いていると時々眠気をさす思いがするので、ひそかに自分の尻をつめりつめりしてしてようやく眠気を醒ましていたことがあった。これに反して内村鑑三先生のは雄弁型で、論調鋭く、警句あり風刺あり、それに自身聴衆の眠気を醒まさせる趣があった」とある。若い時の志賀直哉も内村の講演に魅せられた一人だった。明治33年の夏、直哉17歳のとき、自分の家にいる書生に連れられて内村鑑三に出会ってから約7年間、鑑三の許に通い続けてその教えを受けた。「大津順吉」や「内村鑑三先生の憶ひ出」にその間のことは記されている。

   「私は太陽暦によれば、1861年(文久元年)3月23日に生まれた。私の一家は武士階級に属していた。ゆえに、私は戦うためにうまれたのであって、ゆりかごのうちから、生くることは戦うことなり、であった。」と、鑑三自身が書いている。そのように彼は日本の武士の子として、70年の生涯を戦いぬき、彼が後世への最大遺物と名づけた「勇ましく高尚な生涯」をいきぬいたのである。鑑三の著書に『代表的日本人』がある。これは明治27年7月に英文で出版されたものである。鑑三がとりあげたのは、西郷隆盛、上杉鷹山、二宮尊徳、中江藤樹、日蓮上人の五人であった。著書の目的は、「日本を世界にむかって紹介し、日本人を西洋人に対して弁護する」ことにあった。ただ、これをするのに、彼らの言葉である英語で書かねばならないのが、まことに残念であると、鑑三はいっている。日本語を世界の言葉にしたいという太閤秀吉の高貴な野心をはやく実現したいものだとも、いっている。いかにも鑑三らしい表現である。札幌農学校の同期である新渡戸稲造『武士道』が海外で広く読まれたように、明治人はスケールが大きかった。反面、有島武郎の情死を強く非難し、人倫を破壊し道義をないがしろにするもの、亡国の兆しと認め、有島の行為を善しとする余の友は、断固余とは絶好してほしいと宣言した。まさに「勇ましい高尚なる生涯」を唱えた、闘うヒューマニストであった。

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