イライザ・タルカットと神戸女学院
イライザ・タルカット(1836-1911)。日本女子教育のパイオニア。アメリカ・コネティカット州出身。
明治6年、アメリカからイライザ・タルカット(36歳)とジュリア・ダッドレー(32歳)の二人の女性宣教師が神戸に来た。明治8年には、旧三田藩主・九鬼家の支援も受けて、神戸市中央区山本通にキリスト教精神に基づく女子高等教育のフロンティアとして「神戸ホーム」が設立された。.タルカットは初代校長になる。明治10年11月、バージニア・クラークソンが着任した。クラークソンとタルカットとの間に意見の対立があったようだが、クラークソンの改革により、学校はより発展をみた。ダッドレー女史は明治13年秋に米国に帰った。明治13年には「神戸英和女学校」と改名した。来日以来、行動をともにしてきたダッドレーが去ったことでタルカットも、このころ学校を離れ、岡山や京都を中心に、山陽・山陰・四国地方の各地で伝導活動でめざましい活躍をした。岡山の石井十次もたびたび彼女に勇気づけられたとのことである。明治24年からは、同志社の京都看病婦学校の教授舎監として看護法の指導に当たり、日清戦争中は広島に出かけて野戦病院で傷病兵の世話をして自らもコレラに感染したりする。その後一時帰国し、健康が回復するやハワイの日系人伝導に従事し、晩年に再来日、死ぬまで神戸女子神学校(聖和大学・短期大学)で教えた。「神戸英和女学校」は明治27年、「神戸女学院」と改名した。(参考:『神戸女学院百年史』、『兵庫県大百科事典』)
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