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2006年9月23日 (土)

夏目漱石と朝日文芸欄

    夏目漱石は明治40年2月下旬、朝日新聞社から招聘の話があり、社会部長渋川玄耳と同郷で文科大学国文科学生である坂元雪鳥が、熊本時代の漱石の教え子であったので、その使者にたった。3月15日、池辺三山({東京朝日」主筆)の来訪を受け、三山の人柄に感じ、地位の保証をも得て入社を決意する。大学、高等学校に辞表を提出した。4月入社する(月給200円)。6月23日から10月29日まで、朝日新聞に連載された「虞美人草」は大評判となり、虞美人草浴衣(三越)、虞美人草指輪(玉宝堂)などが売りに出された。大正5年12月9日、「明暗」を連載中、第188回(朝日新聞大正5年12月14日付)で中断するまで、漱石の執筆活動朝日新聞が独占していた。漱石と朝日新聞との深い関係から、いわゆる漱石山房といわれる門人たちも朝日新聞でデビューする。また、明治42年11月25日から「朝日新聞」文芸欄創設、主筆となった漱石は、森田草平に編集させ、小宮豊隆がこれを助けることにした。ところが、明治44年9月19日の「東京朝日」の評議委員会(編集会議)で、森田草平の「自序伝」が不道徳であるとの理由で非難を受け、朝日文芸欄の廃止が論議された。弓削田精一、渋川玄耳、松山忠二郎、池辺三山が強く反対し、存続に決まった。しかし、9月30日、村山竜平、池辺三山が辞職する。(朝日新聞社では、これを「煤煙事件」と呼ぶ。「自叙伝」が「煤煙」の続編だったからである)このとき漱石は胃潰瘍と痔で体調が悪く、この事情はまったく知らなかった。11月1日、漱石は朝日新聞社に辞表を出すが、池辺三山、弓削田精一らの慰留で、20日に撤回する。この時の辞表が真剣なものであったことは、つぎの鏡子夫人の言葉でも察することができる。

   「事の起こりはどういうところにあつたものか、私のようなものにはわかりませんが、ともかく大分社内が動揺したらしゅうございます。ただ夏目からは、今度「朝日」をやめることにするかもわからないが、おれはいったい世間に出て融通のきくほうの人間ではないから、これから「朝日」の月給を離れたら、あるいは筆一本で従前どおりの収入の途がたたないかもしれない。かといってまた教師をする気もしないが、どうだ、それで家の経済はどうなりやってゆけるかという相談がありました。そこで私も、印税や何かで、まあまあどうにかこうにかやってゆけましょう。収入が少なくなればなったで、そのようにしてでればやってゆけると思いますから、どうか名分のたつようになって自由にやってください。しかし去年の大患の時には「朝日」から一方ならぬ世話になっていますが、今おやめになってそのほうは差し支えないのですかと念を押しました。すると夏目も、なるほど世話にはなっているが、それとこれとは別だからと申しまして、辞職の決心をきめたようでした」(『漱石の思い出』)

    「朝日文芸欄」の廃止については、漱石の内部に門弟たちとの思想的な隔たりが、その頃から痛切に感じられて来ていたようである。小宮豊隆、森田草平、阿部次郎、安倍能成、和辻哲郎ら漱石門下生らの中からすぐれた評論家・思想家は輩出したが、残念ながら漱石の思想と倫理の幅をあわせた小説家はついに出なかった。戦後まもなく評論家の本多顕彰はこのことを「漱石山脈の死火山」と喩えている。

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