井上日召と血盟団
井上日召(1886-1967)。明治43年、満州に渡って満鉄社員となり、参謀本部の諜報活動に従事。帰国後、日蓮宗を説き、国家革新運動に挺身。大正14年、護国聖社を結成。
彼は40日余りの断食にも耐え、また線香の落ちる音も聞きわけたという。この神秘性が茨城の農村青年の心をとらえ、たちまちに右翼団体の指導者になる。当初の革命方針は非暴力であったが、海軍の藤井斉中尉から暴力的改造以外に道はないと説得され、やがて同調するようになった。
昭和6年の十月事件の首謀者らがクーデター後は自分たちが内閣リストに入ることを考えていると知り、井上は決然として野心的な政治軍人と袂を分かち、13名の同志による一人一殺主義の血盟団を組織したのである。昭和7年、血盟団は小沼正、菱沼五郎らによって、井上準之助(前蔵相)、団琢磨(三井合名理事長)の暗殺事件を起こした。相次ぐテロに警視庁は「赤には敏感で黒には鈍感」(3月6日付朝日新聞)と非難をうけた。血盟団は、昭和激動の恐るべき台風の眼であった。
事件後、井上は無期懲役となったが、昭和15年、出獄し、翌年三上卓、四元義隆、菱沼五郎らと「ひもろぎ塾」を設立。敗戦後農村青年に講演をして廻り、昭和29年、護国団を設立した。昭和42年没。
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