大大阪の建設
大正から昭和にかけての大阪は「大大阪」という呼び名のもと、商・工業の発展に、市域拡張に、都市計画事業の推進に全力をあげた。大正14年10月、大阪市が外郭団体として創設した大阪都市協会は、発足と同時に刊行した市政普及月刊誌「大大阪」の創刊号に、「都市の健全なる発達と市民福祉の増進とは、一に都市的施設の成否如何に依って決せらるる。而して之が建設に当たる者、或は国家なり、或は都市自治たるも、都市の建設は愛市精神の発露であり、市民の理解と自覚とに依って初めて達成せらるべきもの」と力強く宣言した。とくに南北に貫く御堂筋と地下鉄は、昭和初期に建設された、近代大阪の最大の記念碑である。昭和8年には梅田~心斎橋の地下鉄が開通し、昭和12年には御堂筋が完成した。
もともと御堂筋というのは、北御堂(西本願寺津村別院)と南御堂(東本願寺難波別院)の門前を通る道に付けられた名である。かつて淀屋橋南詰から南下する道は、淀屋橋筋という幅6mほどの狭い道であった。それを一挙に8倍の48mに広げるためには、市民の絶大なる協力があり、江戸時代以来の自治都市大阪の伝統が力強く発揮された。
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