ハプスブルク家千年史
ハプスブルク家は10世紀中葉に始まり、アルザス、上ラインに広大な所領をもつ。ドイツ・シュヴァーヴェン部族の一門で、11世紀から12世紀ごろには、政治的権力をつけ、スイスのバーデン近くに、ハービヒツブルク城を築いた。ハプスブルク(Habsburger)の名称はこのスイスの居城に由来する。
13世紀中葉、神聖ローマ帝国の皇帝コンラード4世が没し(1254年)、皇帝のいない大空位時代が続き、1273年に初めてハプスブルク家のルドルフ1世がドイツ王に選ばれ、オーストリアに地歩を築いた。
15世紀にはアルブレヒト2世がドイツ王に選出され(1438年)、フリードリッヒ3世(1415-1519)はドイツ王に選出される(1446年)。15世紀末から16世紀初めにかけて、ハプスブルク家中興の祖として有名なマキシミリアン1世(1456-1519)が登場する。1477年、マキシミリアンはブルゴーニュ公国のマリア・フォン・ブルグントと結婚する。「汝は戦争せよ、我は結婚する」という言葉通り、ハプスブルク家がヨーロッパの広大な世襲領土を獲得したのは、結婚政策によるところが大きい。ブルゴーニュは当時ヨーロッパの経済的繁栄地だった。
16世紀になると、カール5世(1500-1558)のときにハプスブルク家支配の世界帝国が現出した。しかしカールは、ドイツ国内の新教弾圧に失敗し、1556年オーストリアの所領を弟フェルナンドに、スペイン王国・ネーデルランド・ナポリ王国、その他ヨーロッパおよび海外領土をすべて嫡子フィリップに譲って退位した。以後ハプスブルク家はオーストリア、スペインの両家に分かれ、ともに17世紀初めころまでヨーロッパで指導的地位を占めた。
17世紀、男子の出生に恵まれなかったカール6世は、娘のマリア・テレジアを相続人として、所領の不分割と相続を定めた国事詔書(プラグマティシュ・ザンクツィオン)いわゆる女子領土相続法を定め、列強の承認を求めたが死後、オーストラリア継承戦争で空文化する。
マリア・テレジア(1717-1780)のときロートリンゲン家よりフランツ1世を迎え、これをハプスブルク・ロートリンゲン家とよぶ。その後1806年同家はナポレオンのため神聖オーストリア皇帝と称し、20世紀にいたったが、1918年第1次世界大戦の結果、カール1世は退位し、ヨーロッパの名門はここに終末した。
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