広瀬武夫と菊池氏族
広瀬武夫(1868-1904)は、慶応4年5月27日、岡藩士広瀬友之允の次男として豊後国竹田茶屋ノ辻で誕生した。8歳にして母を亡くし、もっぱら祖母に育てられた。父の友之允は、幕末の頃、国事に奔走した勤皇家であった。明治になって名前を広瀬重武といい、裁判官となった。その後、一家は飛騨高山に移り、武夫は飛騨高山の小学校を卒業すると、明治15年代用教員となる。明治18年11月、上京し、東京攻玉社を経て築地の海軍兵学校に入校する。講道館で柔道の稽古に励みながら、明治22年卒業すると、日清戦争には運送船監督、「扶桑」航海士として従軍。明治30年軍司令部出仕となり、同年ロシアに留学。同ぺテルブルグ駐在武官となり、ヨーロッパ各国を視察。明治35年帰朝後、日露戦争に朝日水雷長として従軍し、第1回旅順閉塞に参加。明治37年、第2回閉塞に福井丸の指揮官となる。3月27日、ロシアの魚雷に当たり自爆。その際、船上で行方不明となった杉野孫七上等兵曹を捜索するが発見できず、帰投中、ロシア軍の砲撃を受け戦死。享年37歳。
広瀬武夫中佐には、7つ年長の兄の広瀬勝比古(かつひこ)がいる。兄も海軍軍人として日露戦争に参加しており、明治44年に少将に昇進した後、大正2年没。兄のことは「子供のころから神童と呼ばれて、学業は優等、思慮は老熟、人物は温厚で、弟には自慢の兄である。二人はとても仲がよい」とある。(「ロシアにおける広瀬武夫」島田謹二)
広瀬氏は古代の名族であるが、豊前・豊後の広瀬氏は、菊池氏族で、その後裔から江戸後期の儒者広瀬淡窓、広瀬青邨や明治期の海軍軍人の広瀬武夫がでている。薩摩の西郷隆盛とともに九州・菊池一族である。
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