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2006年9月 5日 (火)

太宰治と無頼派

    敗戦後の太宰治は、坂口安吾・織田作之助・石川淳などとともに無頼派と呼ばれ、戦後混乱期文壇の寵児と目された。戦後の荒廃の中でいちはやく活動を開始した文学雑誌は、大正作家、新感覚派作家に続いて太宰ら昭和10年前後に文壇にデビューした作家に登場を促した。彼らが無頼派あるいは新戯作派と呼ばれたのである。太宰は、疎開中の昭和20年秋、仙台の「河北新報」に『パンドラの匣』を連載する。この後半で、作中人物に「無頼派」(リベルタン)を宣言させたのである。これが無頼派の名の由来だとする説もある。太宰がここで意図したことは、戦後論壇の自由主義の連呼を「時局便乗」の「サロン思想」として攻撃することにあった。敗戦という「新現実」を迎えて、太宰の渇望したのは「道徳革命」であった。昭和21年前半には「アナキズム風の桃源」を夢見たりもした。この時期の太宰の発言は、坂口安吾の『堕落論』などとともに、既成の倫理を否定し人間の復活を呼びかけるものとして、価値観の転倒に戸惑う人々に強い共鳴を呼んだのであった。

    しかし、戦後文壇にこの無頼派の後を追って登場したのは第一次戦後派であった。そして「近代文学」派は、第一次戦後派を押し立てて、今こそ日本にはじめて本格小説を実現させねばならぬと意気込んだ。平野謙は、伊藤整の論に導かれながら、太宰は「破滅型私小説」と分類し、第一次戦後派によって超えられるべきものと規定した。以後長い間、太宰文学はこの延長上で評価されてきたと言える。

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