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2006年9月30日 (土)

幸徳秋水、内村鑑三、「万朝報」を退社する

   明治36年10月、いよいよ日本とロシアとの外交交渉がゆきづまり、大きな戦争がはじまると人々が思いはじめているころだった。当時東京第一の売上げ部数をほこっていた「万朝報」の編集部では激論がたたかわされていた。ロシアとの戦争を支持するか反対するか。社主の黒岩涙香と論説記者の幸徳秋水は対立していた。涙香はどなった。「君、君はなぐられてもそのままだまっているのかい?」秋水は友人の堺利彦、また同じ社の内村鑑三と相談のうえ、「万朝報」が戦争賛成に紙面を統一する以上、退社して、自分の文章に責任をもとうと一決せざるをえなかった。クリスチャンの内村は退社以後別の行動をとったが、秋水と堺は、あらたに週刊の「平民新聞」を発刊し、一人の言論人として生きていこうと決心した。「平民新聞」創刊号の第一ページをかざる宣言は、こう書きだされている。

  「自由、平等、博愛は人生世に在る所以の三大要義也」これはそもそもフランス革命のときのスローガンである。「平民新聞」の編集局と自称する和室には、秋水の先生だった中江兆民の「文章経国の大業は不朽の盛時なり」という額がかかげられていた。

   内村は基督者としての強く闘うヒューマニストの姿勢を顕示した。「余は単に非開戦論者であるばかりではない。戦争絶対的廃止論者である。戦争は人を殺すことである。人を殺すことは大罪悪である。この大罪悪を犯して、個人も国家も永久に利益を得ようはずはない。戦争の利益は強盗の利益である」と極言した。「戦争は大罪悪だ」「戦争は強盗だ」という意思表示と論調の激しさとは内村の生涯の特徴であった。さらに叫ぶ、「戦争廃止論の声の起こらない国は未開国である。然り野蛮国である」と。文明開化を謳歌しつつあった明治日本は内村によって未開国・野蛮国の焼印を押された。そして泥田の中に蹴落とされた。戦うヒューマニストにはこの激しさと厳しさの表現を必要とした。彼の非戦論・平和論は今もなお民衆・読者の胸を打ち、振るい動かす力ではないか。

   「戦争と軍人が日本の富を奪い、ついには国民の手の中に残っている自由も憲法も煙硝のように消えてしまい、国を挙げて兵営と化し煙硝を食わされることになってしまった。日本国は滅亡するに至るだろう」({近時雑感」)

   まさに現代日本への痛烈な批判と挑戦と予言ではないか。日中十五年戦争・太平洋戦争による日本の滅亡の運命を適確に予言している。戦後の安保体制や日本・米・韓国・中国の問題を予言している。さらに現代の「戦後からの脱却」・憲法改正を予言しているようではないか。明治44年の「世界の平和は如何にして来るか」という論文で、「軍備は平和を保証しない。戦争を保証する」と叫んだ。内村はそのころすでに徹底した軍備無用論を叫んでいた。いまの日本にこのような痛切な警世の鐘を打ち鳴らす評論家がいるだろうか。筆は社会を動かせる。

2006年9月29日 (金)

1920年代のアメリカ映画

    映画すなわち活動写真はエジソンの発明によるが、これに芸術を加えたのがフランスでありイタリアであった。そのころアメリカは彼らのあとに従う幼稚さであった。ところが活動写真がアメリカに黄金の運命をもたらした。それは第一次大戦によるアメリカの活気、カリフォルニアのハリウッドへと東部のスタジオを移したことだった。かくしてアメリカは広大なハリウッドの土地で自由なキャメラで連続活劇とドタバタ喜劇を製作した。アメリカ映画はグリフィスの詩情、デミルの豪華なるスペクタル、それにストロハイムの写実主義という三大監督が三つのスタイルでアメリカ映画を世界のアメリカ映画に発展させた。また喜劇が痛快で、チャップリンをはじめ、ロスコー・アーバックル、バスター・キートン、ベン・タービン、ハロルド・ロイドがでた。かくて1920年代、アメリカ映画は、メリー・ピックフォード、ダグラス・フェアバンクス、グロリア・スワンスン、ウォーレス・リード、さらにルドルフ・ヴァレンチノなどのスターの時代へとその華麗なる発展をとげていった。1920年代後半といえばジャズ時代、映画はサイレント時代なるもこのジャズ時代と結びつかぬわけはない。映画は、モダン・ガール、モダン・ボーイ、その当時のチャールストン・ダンスに明け暮れるパーティー映画も盛んに製作された.映画では陽気なアメリカ人が十分に表現され、アメリカ映画は世界中のあこがれとなっていった。しかし突然の大不況。かくてアメリカ映画危うしの土壇場でアメリカ映画はトーキーへとその危機を切り抜けてゆくのである。(参考:淀川長治「1920年代のアメリカ映画」世界の歴史月報17)

2006年9月28日 (木)

森鴎外の小倉左遷時代

    明治33年6月8日、森鴎外は陸軍軍医監に任ぜられ、小倉の第十二師団の軍医部長として赴任する。彼にとっては不本意な勤務で、軍内部の政治的抗争が関係しているともされ、鴎外のいわゆる「小倉左遷時代」と称されている。鴎外自らもこれを左遷と意識していたが、この小倉時代は文学者鴎外として大きな転機となる重要な位置を占める。

 鴎外左遷の真相は謎であるが、一説によると東京の陸軍省の小池正直医務局長と鴎外とは同期のライバルであり、軍隊の衛生事業の改良問題で対立していたという。鴎外は軍にありては、衛生及び防疫を指導しており神経質なほどに細かかった。鴎外はこの左遷を怒って、一旦は軍職を退こうと決意したが、親友の賀古鶴所の忠言によって思いとどまったともいわれている。

   小倉に着いた鴎外は、鍛冶町87の借家に住む。1年半後に新免町に転居。明治33年1月に「鴎外漁史とは誰ぞ」を発表して、文学的沈黙を宣言する。小倉時代、審美学、仏教研究、クラウゼヴッツ戦争論翻訳、「即興詩人」翻訳完成、フランス語、サンスクリット語、ロシア語の独習などの学究的生活を送り、他日の文学的復興に備えた。私生活でも明治23年に最初の妻登志子と離婚して以来11年間独身生活であったが、明治35年1月、判事荒木博臣の長女茂子(志け)と結婚する。同年3月14日には東京の第一師団の軍医部長に転任する。かくして鴎外の小倉時代は2年10ヵ月で終わる。

2006年9月25日 (月)

広瀬武夫と菊池氏族

    広瀬武夫(1868-1904)は、慶応4年5月27日、岡藩士広瀬友之允の次男として豊後国竹田茶屋ノ辻で誕生した。8歳にして母を亡くし、もっぱら祖母に育てられた。父の友之允は、幕末の頃、国事に奔走した勤皇家であった。明治になって名前を広瀬重武といい、裁判官となった。その後、一家は飛騨高山に移り、武夫は飛騨高山の小学校を卒業すると、明治15年代用教員となる。明治18年11月、上京し、東京攻玉社を経て築地の海軍兵学校に入校する。講道館で柔道の稽古に励みながら、明治22年卒業すると、日清戦争には運送船監督、「扶桑」航海士として従軍。明治30年軍司令部出仕となり、同年ロシアに留学。同ぺテルブルグ駐在武官となり、ヨーロッパ各国を視察。明治35年帰朝後、日露戦争に朝日水雷長として従軍し、第1回旅順閉塞に参加。明治37年、第2回閉塞に福井丸の指揮官となる。3月27日、ロシアの魚雷に当たり自爆。その際、船上で行方不明となった杉野孫七上等兵曹を捜索するが発見できず、帰投中、ロシア軍の砲撃を受け戦死。享年37歳。

 広瀬武夫中佐には、7つ年長の兄の広瀬勝比古(かつひこ)がいる。兄も海軍軍人として日露戦争に参加しており、明治44年に少将に昇進した後、大正2年没。兄のことは「子供のころから神童と呼ばれて、学業は優等、思慮は老熟、人物は温厚で、弟には自慢の兄である。二人はとても仲がよい」とある。(「ロシアにおける広瀬武夫」島田謹二)

   広瀬氏は古代の名族であるが、豊前・豊後の広瀬氏は、菊池氏族で、その後裔から江戸後期の儒者広瀬淡窓、広瀬青邨や明治期の海軍軍人の広瀬武夫がでている。薩摩の西郷隆盛とともに九州・菊池一族である。

2006年9月24日 (日)

「後世への最大遺物」内村鑑三

   われわれは、この世に生まれてきたからには、何か遺物を残していきたいというのが人情である。内村鑑三は、その遺物として、第一に財をたくわえてこれを社会事業に残すこと、第二にたとえば土木事業のような事業を残すこと。第三に思想、著述などを残すことをあげ、しかしそれらはだれにでもできる遺物とはいえない。だれにでもでき、利益ばかりあって害のない遺物、それは「高尚な勇ましい生涯」だというのが『後世への最大遺物』の論旨である。これは明治27年7月、箱根芦ノ湖畔で、キリスト教の第6回夏期学校が開かれたときの講演である。内村の講演はいつも満員であったという。講演は全身全霊、熱血のほとばしるようであった。正宗白鳥の言葉を借りれば、「植村正久先生の説教を聴いていると時々眠気をさす思いがするので、ひそかに自分の尻をつめりつめりしてしてようやく眠気を醒ましていたことがあった。これに反して内村鑑三先生のは雄弁型で、論調鋭く、警句あり風刺あり、それに自身聴衆の眠気を醒まさせる趣があった」とある。若い時の志賀直哉も内村の講演に魅せられた一人だった。明治33年の夏、直哉17歳のとき、自分の家にいる書生に連れられて内村鑑三に出会ってから約7年間、鑑三の許に通い続けてその教えを受けた。「大津順吉」や「内村鑑三先生の憶ひ出」にその間のことは記されている。

   「私は太陽暦によれば、1861年(文久元年)3月23日に生まれた。私の一家は武士階級に属していた。ゆえに、私は戦うためにうまれたのであって、ゆりかごのうちから、生くることは戦うことなり、であった。」と、鑑三自身が書いている。そのように彼は日本の武士の子として、70年の生涯を戦いぬき、彼が後世への最大遺物と名づけた「勇ましく高尚な生涯」をいきぬいたのである。鑑三の著書に『代表的日本人』がある。これは明治27年7月に英文で出版されたものである。鑑三がとりあげたのは、西郷隆盛、上杉鷹山、二宮尊徳、中江藤樹、日蓮上人の五人であった。著書の目的は、「日本を世界にむかって紹介し、日本人を西洋人に対して弁護する」ことにあった。ただ、これをするのに、彼らの言葉である英語で書かねばならないのが、まことに残念であると、鑑三はいっている。日本語を世界の言葉にしたいという太閤秀吉の高貴な野心をはやく実現したいものだとも、いっている。いかにも鑑三らしい表現である。札幌農学校の同期である新渡戸稲造『武士道』が海外で広く読まれたように、明治人はスケールが大きかった。反面、有島武郎の情死を強く非難し、人倫を破壊し道義をないがしろにするもの、亡国の兆しと認め、有島の行為を善しとする余の友は、断固余とは絶好してほしいと宣言した。まさに「勇ましい高尚なる生涯」を唱えた、闘うヒューマニストであった。

2006年9月23日 (土)

夏目漱石と朝日文芸欄

    夏目漱石は明治40年2月下旬、朝日新聞社から招聘の話があり、社会部長渋川玄耳と同郷で文科大学国文科学生である坂元雪鳥が、熊本時代の漱石の教え子であったので、その使者にたった。3月15日、池辺三山({東京朝日」主筆)の来訪を受け、三山の人柄に感じ、地位の保証をも得て入社を決意する。大学、高等学校に辞表を提出した。4月入社する(月給200円)。6月23日から10月29日まで、朝日新聞に連載された「虞美人草」は大評判となり、虞美人草浴衣(三越)、虞美人草指輪(玉宝堂)などが売りに出された。大正5年12月9日、「明暗」を連載中、第188回(朝日新聞大正5年12月14日付)で中断するまで、漱石の執筆活動朝日新聞が独占していた。漱石と朝日新聞との深い関係から、いわゆる漱石山房といわれる門人たちも朝日新聞でデビューする。また、明治42年11月25日から「朝日新聞」文芸欄創設、主筆となった漱石は、森田草平に編集させ、小宮豊隆がこれを助けることにした。ところが、明治44年9月19日の「東京朝日」の評議委員会(編集会議)で、森田草平の「自序伝」が不道徳であるとの理由で非難を受け、朝日文芸欄の廃止が論議された。弓削田精一、渋川玄耳、松山忠二郎、池辺三山が強く反対し、存続に決まった。しかし、9月30日、村山竜平、池辺三山が辞職する。(朝日新聞社では、これを「煤煙事件」と呼ぶ。「自叙伝」が「煤煙」の続編だったからである)このとき漱石は胃潰瘍と痔で体調が悪く、この事情はまったく知らなかった。11月1日、漱石は朝日新聞社に辞表を出すが、池辺三山、弓削田精一らの慰留で、20日に撤回する。この時の辞表が真剣なものであったことは、つぎの鏡子夫人の言葉でも察することができる。

   「事の起こりはどういうところにあつたものか、私のようなものにはわかりませんが、ともかく大分社内が動揺したらしゅうございます。ただ夏目からは、今度「朝日」をやめることにするかもわからないが、おれはいったい世間に出て融通のきくほうの人間ではないから、これから「朝日」の月給を離れたら、あるいは筆一本で従前どおりの収入の途がたたないかもしれない。かといってまた教師をする気もしないが、どうだ、それで家の経済はどうなりやってゆけるかという相談がありました。そこで私も、印税や何かで、まあまあどうにかこうにかやってゆけましょう。収入が少なくなればなったで、そのようにしてでればやってゆけると思いますから、どうか名分のたつようになって自由にやってください。しかし去年の大患の時には「朝日」から一方ならぬ世話になっていますが、今おやめになってそのほうは差し支えないのですかと念を押しました。すると夏目も、なるほど世話にはなっているが、それとこれとは別だからと申しまして、辞職の決心をきめたようでした」(『漱石の思い出』)

    「朝日文芸欄」の廃止については、漱石の内部に門弟たちとの思想的な隔たりが、その頃から痛切に感じられて来ていたようである。小宮豊隆、森田草平、阿部次郎、安倍能成、和辻哲郎ら漱石門下生らの中からすぐれた評論家・思想家は輩出したが、残念ながら漱石の思想と倫理の幅をあわせた小説家はついに出なかった。戦後まもなく評論家の本多顕彰はこのことを「漱石山脈の死火山」と喩えている。

2006年9月22日 (金)

石狩事件と牧口常三郎

    14歳の少年の身で郷里新潟から単身北海道へ来た牧口常三郎は、明治34年、30歳の春、突如一切の職務を辞して北海道を去る。唐突なこの転出は、牧口の内面における選択の決断と、師範学校寄宿舎において発生した生徒間の刃傷事件に舎監として責任を明らかにするという外的要因との、二者によるものである。ここでは、その外的要因である、明治30年代の教育界における学校紛擾の一例をみる。

   石狩事件の発端は、明治33年10月上旬に発生した3年生たちのストライキ、「石狩事件」にあった。4年生を除く全校生徒が校長・職員に引率されて石狩地方へ修学旅行中の10月6日、石狩の旅館を発って銭函へ向かう予定のところ、3年生8人が連合して出立を拒否、校長・職員らの説得にも抗して8日朝まで石狩に滞在して同日帰校したという事件である。牧口は、4年生の東京・鎌倉地方への修学旅行を引率して10月5日小樽を出発しており、この「石狩事件」には立ち合っていない。明治34年2月9日、石狩事件にからむ生徒間の刃傷事件が附属小学校体操室で発生した。翌10日職員会議を招集して事後処理を協議し、道庁に報告する。生徒19人の放校処分、校長横山栄次はじめ舎監および教諭以上の職員全員の進退伺を道庁長官に提出した。教諭兼舎監であった牧口も、当然に進退伺を提出したものと考えられる。

 このような学校紛擾は、当時全国各地の師範学校・中学校等に頻発した。学校紛擾の直接的要因は各学校ごとにさまざまであったが、概して教育への国家統制が強化されてきたことと、教師と生徒たちとの世代間格差(幕末期に育った教員と維新後の新教育を受けてきた生徒)などが、その底流に横たわっていた。北海道師範学校も例外ではなく、一生徒切腹事件(明治20年1月)、清川校長排斥事件(明治26年)、石切山マラソン事件(明治32年)など多発していた。(参考:『牧口常三郎全集 7』)

2006年9月20日 (水)

牧口常三郎の青年時代と北海道

   牧口常三郎(1871-1944)は、昭和5年11月18日、戸田城聖とともに「創価教育学会」を創設したことで知られる宗教家・教育思想家・地理学者。のち戦争に反対し、不敬罪と治安維持法違反を理由に弾圧を受け、昭和19年11月18日、73歳で巣鴨拘置所で獄死している。まさに身命を賭して自己の信念を貫いた生涯である。

    明治4年6月6日、柏崎県刈羽郡荒浜村で、船乗りであった父・渡辺長松と母・イネの子として生まれる。本名渡辺長七。六歳のとき、親戚にあたる牧口善太夫の養子となる。

    明治14年ごろのある日、長七(14歳)は突然北海道へ行くことを決意する。故郷の荒浜村を去って、北海道へ渡ろうとした動機については、はっきりしたことは何もわからない。当時の北海道には札幌農学校と北海道尋常師範学校があった。風のたよりに聞いて北海道を好きな学問ができる場所と考えたのかもしれない。北海道に渡った長七は、小樽警察署の給仕として雇われた。仕事の合い間は必ず本を読んでいる長七は「勉強給仕」とあだ名された。明治24年、20歳のときに独学で北海道尋常師範学校(:現在の北海道教育大学)に編入学する。明治26年には、名を常三郎と改め、北海道尋常師範学校附属小学校訓導となる。当時、教師仲間でも敬遠されていた僻地教育の難事業に取り組み、僻地教育の先駆となる。

    明治25年ころの北海道の状況をみてみよう。人口は、函館58000人、小樽26000人、札幌25600人。札幌は行政の要地だったが、人口が函館の半分だったことや、小樽よりも少ないことがわかる。いま札幌は大都市だが、港町の函館や小樽のほうが栄えていた。北海道はようよく開拓が始まさったばかりの新開地で、内陸部の中心である空知や上川地方の開拓が始まったのが明治20年代の初めで、23年滝川、24年氷山、25年東旭川というふうに移民がおくりこまれて屯田兵村がつくられ、原生林をきりひらいていた。

    牧口は師範学校をでて、地理の授業を受け持っていた。その頃、地理学は新しい学問であった。とくに牧口の授業は生徒に人気があった。単に地図を広げて、山や川の名前を示すような授業でなかった。一つの山を例にあげると、その山が人々の生活とどのようなかかわりをもっているか、また、人間の生活が、自然をどのように変化させてきたかなどと考えを進めていくのであった。牧口は実際の教育を通し地理科の重要性を痛感した。当時の地理教育が、ただ平板な暗記的羅列的なものであっただけに、地理教育の改善を意図して、のちに「人生地理学」(明治36年刊)を著わすのである。地理学研究に打ち込む牧口に影響を及ぼしたのは内村鑑三と志賀重昂である。当時の地理書といえば、内村鑑三「地理学考」(明治25年刊。のちに「地人論」と改題)と志賀重昂の「日本風景論」(明治27年)があげられる。札幌農学校出身の内村鑑三、新渡戸稲造、志賀重昂と牧口常三郎がいずれも北海道という開拓地で学問を開花し、教育や宗教へとそれぞれの課題を深化・発展させたことは注目される。(参考:美坂房洋「牧口常三郎」聖教新聞社  1972)

2006年9月19日 (火)

山田敬蔵、ボストンマラソン優勝

    昭和28年4月20日、第57回ボストン・マラソンで山田敬蔵(同和鉱業花輪鉱業所)は2時間18分51秒の世界新記録で優勝した。レースは第53回大会優勝者スウェーデンのレアンデルソンがまずリード、これを山田、カルヴォネンが追う展開となる。マラソンでよく使われる「心臓破りの丘」という言葉はこのレースが起源といわれるが、山田、カルヴォネン、アンダーソンの3人の大接戦となった。まさに終盤に山田がスパートして2人を離してゴールイン。タイムはザトペックの2時間23分3秒を大幅に更新する大記録。しかし2位のカルヴォーネンとはわずか28秒差、3位のアンダーソンともわずか41秒差という激しいものだった。日本人としては、第55回優勝の田中茂樹に次いで2人目。いよいよマラソンは10分台に突入した。しかしのちに残念ながらコースの距離不足が判明し、記録は抹消されている。

    山田敬蔵78歳。2006年4月のボストン・マラソンに挑戦し、4時間16分07秒という記録を残し完走する。生涯現役ランナーに拍手。

那珂通世と自転車

   那珂通世(1851-1908)は、明治時代の東洋史学者。旧南部藩士藤村正徳の三男、藩儒那珂通高(江幡梧楼)の養子。養父が新政府らよって幽閉されたため、福沢諭吉のもとで苦学して学者となった。東洋史学の発展に寄与し、東洋史という言葉も彼が明治27年中学校の歴史教科書に用いたのが最初である。漢文の著書「支那通史」5冊(1888-90)は清国で翻刻され、通史に「那珂東洋小史」、「成吉思汗実録」等がある。

    那珂は自転車博士といわれるほど自転車による旅行が好きで、日本国内だけでなく、朝鮮や満州にまで自転車旅行をしている。

2006年9月18日 (月)

イライザ・タルカットと神戸女学院

   イライザ・タルカット(1836-1911)。日本女子教育のパイオニア。アメリカ・コネティカット州出身。

   明治6年、アメリカからイライザ・タルカット(36歳)とジュリア・ダッドレー(32歳)の二人の女性宣教師が神戸に来た。明治8年には、旧三田藩主・九鬼家の支援も受けて、神戸市中央区山本通にキリスト教精神に基づく女子高等教育のフロンティアとして「神戸ホーム」が設立された。.タルカットは初代校長になる。明治10年11月、バージニア・クラークソンが着任した。クラークソンとタルカットとの間に意見の対立があったようだが、クラークソンの改革により、学校はより発展をみた。ダッドレー女史は明治13年秋に米国に帰った。明治13年には「神戸英和女学校」と改名した。来日以来、行動をともにしてきたダッドレーが去ったことでタルカットも、このころ学校を離れ、岡山や京都を中心に、山陽・山陰・四国地方の各地で伝導活動でめざましい活躍をした。岡山の石井十次もたびたび彼女に勇気づけられたとのことである。明治24年からは、同志社の京都看病婦学校の教授舎監として看護法の指導に当たり、日清戦争中は広島に出かけて野戦病院で傷病兵の世話をして自らもコレラに感染したりする。その後一時帰国し、健康が回復するやハワイの日系人伝導に従事し、晩年に再来日、死ぬまで神戸女子神学校(聖和大学・短期大学)で教えた。「神戸英和女学校」は明治27年、「神戸女学院」と改名した。(参考:『神戸女学院百年史』、『兵庫県大百科事典』)

2006年9月17日 (日)

サッコ・バンゼッティ事件

    米国裁判史上最大の汚点といわれるサッコ・バンゼッティ事件の悲劇はなぜ起こったのか。

  1920年4月15日、マサチューセッツ州のボストン南方の小さな町サウス・ブレインツリーで製靴会社の会計部長と警備員が射殺され、500人分の給料袋(1万5000ドル)が奪われた。事件発生から20日後、製靴工のニコラ・サッコ(1891年生)と魚行商人のバルトロメオ・バンゼッティ(1888年生)が容疑者として逮捕された。2人はイタリア移民のアナーキストで、大戦中はそろって徴兵を忌避している。警察は明確な物的証拠もないまま2人を検挙し、事件当時の検事はにせの目撃者を雇って法廷で証言させている。

    戦後不況で労使紛争が熾烈化していたアメリカでは、社会不安の原因を過激分子になすりつけ、共産主義憎悪をつのらせていた。ボストンでは特にその傾向がひどく、裁判では2人の前歴とアナーキストという点が、裁判長と陪審員に誤った予断をいだかせ、有罪が宣告された。有罪判決から約3ヵ月後、公正さに欠ける審理に抗議する動きが、アナトール・フランス、アインシュタインなどの支援を得て、ヨーロッパをはじめ世界各地でおこる。そのため、死刑は確定されたものの、内外の抗議運動に執行は延び延びになっていた。しかし、弁護側の裁判やり直し申し立てはことごとく却下され、しかも州知事の特赦拒否にあって、2人は1927年8月23日に電気椅子で処刑される。なお、裁判の不当性が認められて、1977年に2人は無罪となる。

    米国の映画監督シドニー・ルメットによるテレビ番組、イタリア映画「死刑台のメロディ」(ジュリアーノ・モンタルド監督、1970)など、この事件を題材にした作品が制作されている。(参考:「死刑台のメロディ・アナーキストの悲劇」週刊マーダー・ケースブック№51 省心書房)

井上日召と血盟団

    井上日召(1886-1967)。明治43年、満州に渡って満鉄社員となり、参謀本部の諜報活動に従事。帰国後、日蓮宗を説き、国家革新運動に挺身。大正14年、護国聖社を結成。

   彼は40日余りの断食にも耐え、また線香の落ちる音も聞きわけたという。この神秘性が茨城の農村青年の心をとらえ、たちまちに右翼団体の指導者になる。当初の革命方針は非暴力であったが、海軍の藤井斉中尉から暴力的改造以外に道はないと説得され、やがて同調するようになった。

   昭和6年の十月事件の首謀者らがクーデター後は自分たちが内閣リストに入ることを考えていると知り、井上は決然として野心的な政治軍人と袂を分かち、13名の同志による一人一殺主義の血盟団を組織したのである。昭和7年、血盟団は小沼正、菱沼五郎らによって、井上準之助(前蔵相)、団琢磨(三井合名理事長)の暗殺事件を起こした。相次ぐテロに警視庁は「赤には敏感で黒には鈍感」(3月6日付朝日新聞)と非難をうけた。血盟団は、昭和激動の恐るべき台風の眼であった。

  事件後、井上は無期懲役となったが、昭和15年、出獄し、翌年三上卓、四元義隆、菱沼五郎らと「ひもろぎ塾」を設立。敗戦後農村青年に講演をして廻り、昭和29年、護国団を設立した。昭和42年没。

2006年9月16日 (土)

三国干渉受諾と臥薪嘗胆

    最初の本格的な対外戦争である日清戦争に勝利し、明治28年4月下関講和条約調印した日本であったが、独仏露公使の遼東半島の清国への返還の勧告、いわゆる三国干渉に世論は沸騰した。このときの国民協会の『報告』で、党派の異同をこえて挙国一致し、「勤倹以テ薪ニ臥シ胆ヲ嘗メ大ニ国力ヲ養成シ盛ニ軍備ヲ拡張シ以テ速ニ其準備ヲ整ヘザル可カラズ」と、当時さかんにとなえられた「臥薪嘗胆」の必要を説き、国力の充実と軍備拡張という、国民協会ほんらいのスローガンを高唱している。

    こうして国民各層のなかに遼東還附への無念の思いは、西洋列強の力のまえに屈服させられた屈辱感となり、それは政府や新聞・雑誌がとなえる「臥薪嘗胆」の合言葉のなかに容易にみちびかれ、日清戦争後にはじまる膨大な軍備拡張を中心とする、いわゆる戦後経営を受容する素地をつくらせたのである。

新島襄と内村鑑三

    日本のキリスト者として対照的な二人の偉大な先達は新島襄(1843-90)と内村鑑三(1861-1930)である。二人とも上州人であり、上州武士の魂によって生き抜いたヒューマニストであり、良心主義の人物であった。

    新島襄は元治元年に密出国してアメリカに渡り10年間滞在。その間、洗礼を受けキリスト教徒となる。国を興すのは教育と知識と国民のりっぱな品行の力にあるという信念のもとに、帰国後、明治8年京都に同志社英学校、明治10念同志社女学校を創立した。小崎弘道、横井時雄、海老名弾正らを世に送る。

   札幌農学校を卒業した内村は、開拓使御用掛として勤務しながら、教友(信仰の同志)とともに新しい教会をきずく仕事にとりかかった。明治15年、外国宣教師からの独立、自給、簡易信条などを特徴とする札幌基督教会を設立した。これが、札幌バンドと呼ばれるようになったキリスト者集団である。明治16年、内村は、札幌県御用掛を辞めて農商務省に勤め、東京のキリスト者と交わりを深めていった。そこで、浅田タケと知り合い結婚、離婚。失意の内村は、新島襄のすすめで、明治18年、アメリカのアマースト大学、ハートフォード神学校に学んだのち、キリストの贖罪の真理への開眼ののち、明治21年帰国した。

   内村鑑三の名は、第一高等中学校不敬事件や日露非戦論によって、また無教会キリスト教の創始者として知られる。しかし天才的キリスト者である反面、人間に巣食う矛盾や偏狭、激しい愛情の念、人によって差別し、冷酷な仕打ちをする強い個性を如何とも為しえなかった。たとえばアマースト大学その他で恩義のある先輩新島襄と同志社への批判攻撃は痛烈であるが的はずれであり、新島の教育実践の正しいことは、今日誰の目にも明らかであろう。有島武郎や小山内薫ら文学者をはじめ知識人、学生の多くは、その後、内村を離れたけれども、内村のもとにとどまった者のなかからは、傑出したキリスト者が現れた。内村の門下には藤井武、塚本虎二、矢内原忠雄、三谷隆正らがいる。

神戸の米騒動と鈴木商店

   第一次大戦による世界的な船舶不足で、造船所は建造ラッシュだった。ミナト神戸は海運ブームで好景気の反面、急激な物価高が市民生活を苦しめた。大正7年8月になると米の仕入れが困難になり、休業する店が続出。富山県下で米騒動が発生し、神戸でも8月11日人々が湊川公園に集まり、米屋へ押しかけ安売りを迫った。

    当時、総合商社として三井、三菱に迫る躍進をしていた鈴木商店の建物(神戸市中央区東川崎町)が焼打ちに遭う事件が起きた。鈴木商店は、大正9年の恐慌後は資金難におちいり、台湾銀行からの巨額の融資で支えたが、昭和2年の金融恐慌で台湾銀行につづいて鈴木商店は破綻した。

NHKドラマ「風見鶏」と異人館ブーム

   ドラマの舞台がクローズアップされて全国的に知られることは、よくある話だが、神戸北野異人館のように閑静な住宅街が全国的な観光地となることはあまり例がないのではないだろうか。もっとも住民にとってはたいへん迷惑な話だろうが。

   昭和52年秋、NHK朝の連続テレビ小説「風見鶏」のストーリーは、和歌山県太地に生まれ育った松浦ぎん(新井春美)が、波乱の生涯の中で「心の中の鯨」を追い求めるという話。夫となるブルックマイヤー(蟇目良)は神戸北野でパン屋を開く。このドイツ人のパン職人にはモデルが実在する。

    ハインリッヒ・フロインドリーブ(1884-1955)。ドイツのチューリンゲンに生まれ、中国の青島で菓子店を営んでいたが、第一次大戦で日本の捕虜となり、C・ユーハイムらと収容所で生活していた。来日して名古屋の敷島パン、大阪の灘万を経て、大正13年、神戸の中山手でパン店「フロインドリーブ」を開業。本格的な欧風パンと洋菓子を日本に定着させた。

日本を愛した文人外交官モラエス

    ウエンセスラウ・デ・モラエス(1854-1929)はポルトガルの海軍士官。明治31年に来日し、神戸の風土を愛し、そのまま神戸に残って副領事、領事、総領事になった。布引茶屋の娘に失恋後、芸者福本ヨネを妻に15年間日本風の生活を送りながら文筆活動も始めた。大正元年妻の死にあい、徳島に移り、ヨネの姪斎藤小春と同棲したが、3年ほどで死別。その後、著述と二人の女性の墓参に毎日を送り、孤独な生活を続けたが、不慮の事故で死んだ。孤独の中で『おヨネとコハル』などの日本紹介の著作を多く残した。

2006年9月14日 (木)

大大阪の建設

    大正から昭和にかけての大阪は「大大阪」という呼び名のもと、商・工業の発展に、市域拡張に、都市計画事業の推進に全力をあげた。大正14年10月、大阪市が外郭団体として創設した大阪都市協会は、発足と同時に刊行した市政普及月刊誌「大大阪」の創刊号に、「都市の健全なる発達と市民福祉の増進とは、一に都市的施設の成否如何に依って決せらるる。而して之が建設に当たる者、或は国家なり、或は都市自治たるも、都市の建設は愛市精神の発露であり、市民の理解と自覚とに依って初めて達成せらるべきもの」と力強く宣言した。とくに南北に貫く御堂筋と地下鉄は、昭和初期に建設された、近代大阪の最大の記念碑である。昭和8年には梅田~心斎橋の地下鉄が開通し、昭和12年には御堂筋が完成した。

    もともと御堂筋というのは、北御堂(西本願寺津村別院)と南御堂(東本願寺難波別院)の門前を通る道に付けられた名である。かつて淀屋橋南詰から南下する道は、淀屋橋筋という幅6mほどの狭い道であった。それを一挙に8倍の48mに広げるためには、市民の絶大なる協力があり、江戸時代以来の自治都市大阪の伝統が力強く発揮された。

吉田松陰の松下村塾と門下生たち

    松下村塾は吉田松陰の叔父の玉木文之進が天保13(1842)年に開いた塾である。名は、松本(下)の塾という意味。嘉永元年、文之進が藩の仕事に就いたため、塾は廃止。その後、松陰の叔父、久保五郎左衛門によって嘉永年間に再開された。松陰が、松下村塾の先生として公式に許可されたのは安政3(1856)年である。講義は翌年から、杉家の小屋を改修して行われるようになった。

 松陰は禁固刑の身で家塾を開くことを許され、尊王精神を基調とした漢学教育をすすめた。後に松陰は獄死したが、個性重視の教育は青年たちに大きな影響を及ぼし、高杉晋作、品川弥二郎、桂小五郎(木戸孝允)、伊藤利助(博文)、山県小助(有朋)ら幕末・明治に活躍した多くの人材を輩出させている。塾生は、このほか久坂玄瑞、吉田栄太郎(稔麿)、入江杉蔵(九一)、久保清太郎、野村和作、佐世八十郎(前原一誠)、正木退蔵などがいた。

    松陰の死後、再び松下村塾が開かれたのは、慶応元年。塾生の馬島甫仙によって5年間運営された。その後、藩の仕事を退いた玉木文之進、松陰の兄杉民治(梅太郎)によって講義が続けられ、明治25年まで続いた。

2006年9月13日 (水)

天正少年使節団

    九州のキリシタン大名大村・大友・有馬の三侯は、宣教師バリニャーニの勧めによりローマ法王グレゴリー13世とイスパニア国王のもとに4人の少年使節団をつかわした。千々石ミゲル(清左衛門)、伊東マンショ(満所)、中浦ジュリアン、原マルチノらはローマに到着。使節の少年たちは14,15歳であったが、いずれも礼儀正しく馬上豊かに胸を張って町を歩いたので、人々の驚嘆を浴び、法王や国王にも好印象を与えた。天正8(1582)年のことだったが、8年後帰国した時は、すでにキリスト教禁制で少年たちの夢は消え去ってしまったのである。

佐藤泰然と順天堂

    佐藤泰然(1804-72)は幕末・維新期の医者。田辺信隆の子。武蔵国(埼玉県)の生まれで、旗本伊奈家に仕えたが、江戸で高野長英に学び、長崎でニーマンについて西洋医学を修め江戸で開業した。堀田正睦に招かれ下総国佐倉に移り、姓を佐藤と改め、日本最初の洋式私立病院順天堂を設立した。病院と医学校を兼ねたもので、その旧家が佐倉順天堂記念館となって残っており、当時の器具も参観できる。幕末には多くの蘭方医や蘭学者が訪れた。東京御茶ノ水の順天堂病院や順天堂大学の先鞭となったが、本人は東京へ行くことはなく、町の病人の手当てに尽くした。

2006年9月11日 (月)

石田三成、三献の逸話

    石田三成(1560-1600)。石田正継の子。初名三也、幼名(通称)佐吉。近江国石田(長浜市石田町)生まれ、少年のころより秀吉に仕えた「近江衆」の筆頭。秀吉の死後は遺児秀頼を擁し、関ヶ原の合戦で家康と対決することになる。

    三成と秀吉との出会いには、有名な逸話がある。長浜城主の秀吉が鷹狩りに出た。喉が渇いたので、寺に寄って茶を所望すると、寺の小姓であった三成が、大きな茶碗に温めの茶を八分目ほど入れて差し出した。

    秀吉は旨そうに飲んで、「今一服」と所望する。三成は前より少し熱い茶を茶碗に半分ついで差し出す。秀吉はこれも旨そうに飲み、「今一服」という。すると三成は小さな茶碗に少量を熱くたてて出した。秀吉はその心遣いに感心し、住職から三成をもらいうけたという。

2006年9月10日 (日)

谷川俊太郎20歳

     ネロ

(愛された小さな犬に)

ネロ

もうじき又夏がやってくる

お前の舌

お前の眼

お前の昼寝姿が

今はっきりと僕の前によみがえる

お前はたった二回ほどの夏を知っただけだった

僕はもう十数回の夏を知っている

そして今夏は自分のや又自分のでないいろいろの夏を思い出している

メゾンラフィットの夏

淀の夏

ウイリアムスパークの夏

オランの夏

そして僕は考える

人間はいったいもう何回位の夏を知っているのだろうと

ネロ

もうじき又夏がやってくる

しかしそれはお前のいた夏ではない

又別の夏

全く別の夏なのだ

新しい夏がやってくる

そして新しいいろいろのことを僕は知ってゆく

美しいことみにくいこと

僕を元気づけてくれるようなこと

僕をかなしくするようなこと

そして僕は質問する

いったい何だろう

いったい何故だろう

いったいどうするべきなのだろうと

ネロ

お前は死んだ

お前の感触

お前の気持ちまでもが

今はっきりと僕の前によみがえる

しかもネロ

もうじき又夏がやってくる

そして

僕はやっぱり歩いてゆくのだろう

新しい夏をむかえ 秋をむかえ 冬をむかえ 春をむかえ 更に新しい夏を期待して

すべての新しいことを知るために

そして

すべての僕の質問にみずから答えるために

     *

    谷川俊太郎は、昭和6年12月、評論家谷川徹三の長子として東京に生まれる。都立豊多摩高校を卒業。昭和25年、三好達治に推薦されて「文学界」に初めて詩を発表、詩壇に登場して次々と佳作を示した。昭和27年、処女詩集『二十億光年の孤独』を出版。鋭い感受性を的確なことばで表現した作品群で、新鮮な衝撃を与えた。「ネロ」は第一詩集『二十億光年の孤独』に所収。作品中の「淀の夏」とあるのは、母の里である京都府淀町で過ごした夏という意味で、作者はそこで終戦を迎えたという。

2006年9月 9日 (土)

野中婉とチャングム

   野中婉(のなかえん)は、1661年野中兼山の4女として生まれた。1664年、お婉4歳の時、亡父の冤罪に連座して、お婉ら一族22人は土佐の西の果て、宿毛に配流される。20余年の長い幽囚の歳月の中で訪う者は一人としていなかったが、ある日、谷秦山が高知の城下から30里を踏破して、人煙まれな宿毛の獄舎を訪ねる。当主清七、欽六、希四郎と相ついで亡くなり、1703年、貞四郎が病死して、野中家の男系は絶えた。お婉は、44歳のときにようやく赦免されて、高知に帰り藩より8人扶持を給される。お婉は、医を業として、野中家の墓をすべて修築し、石碑を完成、1712年には兼山の50年祭を朝倉安履亭で催す。1725年12月29日、65歳で没す。お婉の生涯を見ると、あの韓国ドラマ「宮廷女官チャングムの誓い」に共通するところがある。父母の冤罪、配流と幽閉、学問(儒学)、医術、名誉回復と女のたくましさが日韓共通している。再来年のNHKの大河ドラマは「篤姫」より「婉という女」(大原富枝)がいいと思う。

2006年9月 8日 (金)

「スバル」と「白樺」の美術紹介

    明治43年前後は、ヨーロッパの新美術志向を学んで、相次いで帰国した一群の画家・彫刻家たちによってもたらされ、さらに詩歌雑誌「スバル」や、文芸雑誌「白樺」の活発なヨーロッパ美術紹介により、一層拍車をかけられたものである。まず、帰国作家を列挙しておくと、明治41年に斎藤与里、荻原守衛、明治42年には高村光太郎、津田青楓、明治43年には有島壬生馬、藤島武二、山下新太郎、南薫造、大正元年には石井柏亭、児島虎次郎、斎藤豊作、大正2年には梅原良三郎(龍三郎)、満谷国四郎、太田喜二郎、大正3年には安井曽太郎が帰国している。

    新時代の旗手のひとりである高村光太郎は、明治43年3月の「スバル」に「緑色の太陽」を発表した。これは、後期印象派に代表される、当時の新しい美術思想を高らかに宣言したものである。文芸同人雑誌「白樺」も、美術紹介に大きな比重を置いた。明治43年には有島「画家ポール・セザンヌ」、「ロダン特別号」、明治44年児島喜久雄訳「ヴィンツェント・ヴァン・ゴオホの手紙」、柳宗悦「ルノアールと其一派」、明治45年柳「革命の画家」、武者小路実篤「後期印象派について」、小泉鉄弥訳「ノア・ノア」(ゴーガン)、斎藤与里「ポール・ゴーガンの芸術」、有島「セザンヌを懐ふ」、「ゴッホ特別号」、大正2年高村訳「画論(アンリ・マチス)」、柳訳「アンリ・マチスと後印象派」、有島訳「回想のセザンヌ」(エミール・ベルナール)。そして作品図版もロダン、セザンヌ、ゴッホ、ゴーギャン、マティス、ムンクが多く掲載されている。前期「白樺」の美術紹介が、後期印象派に主力を注いだことは明らかといえよう。このように印象派は白樺派によって日本に紹介された際、「後期印象派」という訳語も長く使用されたが、最近では「ポスト印象派」という語が普及しつつある。

大庭葉蔵

    太宰治の作品の中で大庭葉蔵という名前は「道化の華」(昭和10年)と「人間失格」(昭和23年)との二作品の主人公として登場している。「道化の華」の大庭は、美術学校に学んだ洋画家志望の青年である。名家の出だが、父親とは折り合いが悪い。幼友達の小菅によれば、おしゃれで、嘘がうまく、好色で残忍な、一種特異な自尊心の持ち主でもある。銀座のバーで知り合った女と袂ヶ浦で心中し、相手は絶命。事件後に入院した療養院で、看護婦や友人たちと気取りのポーズをとったり、失敗談を披露しあったりして、互いの自尊心をかばいあいつつ、道化の交歓を繰り広げていく。

   「人間失格」の大庭は、東北の田舎町に生まれる。父は東京に別宅を持つ政治家。上京し、旧制高等学校在学中に心中事件を起こす。のちシズ子と同棲しながら大衆向けの漫画を書いて暮らしてゆく。ヨシ子の無垢の信頼心が汚されるのを目のあたりにし、その衝撃から薬品中毒に陥り、脳病院に入院する。生い立ち、左翼活動、心中事件、薬物中毒、脳病院入院などは、若干の改変を含みつつも、基本的には太宰治自身の昭和11年までの実生活の事実がふまえられている。

    「道化の華」と「人間失格」とで大きくことなる点は、「人間失格」では作者である「私」と葉蔵とは別人物である旨が強調されて、とくに[私」は葉蔵を嫌悪するのに対して、「道化の華」では「僕」は葉蔵をたえず弁護していることである。

2006年9月 7日 (木)

シェーンブルン宮殿とマリア・テレジア

   ハプスブルク家の記念碑とも呼べるシェーンブルン宮殿は、もともと庭園とぶどう園のあるバイエル家の館だった。カッターブルクと名づけられたその豪華な館がハプスブルク家の持ち物になったのは1569年のこと。それから、狩猟愛好家のマキシミリアン2世が周辺の土地を買い取り、狩りの館へと拡張したのが、宮殿の起源である。

   その息子マティアス皇帝が狩猟の途中、この地で美しい泉(シェーナー・ブルネン)を発見し宮殿の名となった。

   その後、宮殿は狩猟などの豪華な社交の場となり、フェルディナント2世、3世の時代に最初の黄金時代を迎えたが、激動する歴史のなかで、焼きはらわれることになる。修復もおこなわれたが、実際に家庭生活のための居城としたのは女帝マリア・テレジアである。

   改装工事は1744年から始まり、5年の歳月をかけて1749年に完成した。担当したのはウィーンの建築家ニコラウス・パカッシ。ロココ様式で改装された宮殿内部と増築部分は、とりわけパカッシの最高傑作といわれる。こうして改装されたシェーンブルン宮殿は、宮廷生活に再び黄金時代を迎えいれた。

   その後、シェーンブルン宮殿は、ナポレオンが一時的に居住したこともあったが、フランツ・ヨーゼフ1世が皇妃エリザベートを迎え入れるまでは、放置されていた。

   エリザベートとの婚礼を機に、第二次のロココともよべるスタイルで改修された宮殿は、再び華やかさを取り戻したように思えた。しかし、第一次世界大戦終結とともに帝国は崩壊し、オーストリア最後の皇帝カール1世が、シェーンブルン宮殿内の青のサロンで国事放棄の宣言に署名し、650年にわたる長い王家の歴史に終止符が打たれた。

エカテリーナ2世と農奴制

    エカテリーナ2世(在位1762-96)は、元来ドイツ人で1754年にピョートル3世と結婚しギリシア正教に改宗したが、近衛連隊のオルロフ一派とむすびクーデターをおこして、夫を殺害し自ら帝位につく。彼女は、口に「法治国家」と「人道主義」を唱え、啓蒙専制君主と呼ばれるにふさわしいかのようにみえる。だが、彼女の治世に、貴族の特権はますます拡大され、農民たちは貴族の奴隷に等しい地位につきおとされてしまう。フランス革命の影響も加わって、彼女の治世に反動体制はいっそう強化された。

    34年間にわたる治世を通じて、彼女は農奴制の強化につとめ、農奴制貴族国家の最盛期を現出した。「農奴を徒刑にする権利の地主への賦与」(1765)、「農奴が地主を告訴することを禁止」(1767)などの政策を遂行、1767年法典編纂委員会を召集、若干の行政上の改革により絶対王政の強化を行おうとした。農奴への圧迫はブガチョフ指導下の農民戦争(1773-75)を惹起する。対外的にはポーランド分割を行い、露土戦争(1768-74、89-92)でクリミア半島を占有してセバストポール軍港を築き、黒海への出口を開いた。東方では、アラスカ・千島の大部分を占領し、1792年には日本にもラクスマンを派遣して通商を求めた。また、フランス革命の進展と新思想の普及には敵意を示し、ラジシチェフ、ノヴィコフらの進歩主義者を迫害した。

2006年9月 6日 (水)

ハプスブルク家千年史

   ハプスブルク家は10世紀中葉に始まり、アルザス、上ラインに広大な所領をもつ。ドイツ・シュヴァーヴェン部族の一門で、11世紀から12世紀ごろには、政治的権力をつけ、スイスのバーデン近くに、ハービヒツブルク城を築いた。ハプスブルク(Habsburger)の名称はこのスイスの居城に由来する。

   13世紀中葉、神聖ローマ帝国の皇帝コンラード4世が没し(1254年)、皇帝のいない大空位時代が続き、1273年に初めてハプスブルク家のルドルフ1世がドイツ王に選ばれ、オーストリアに地歩を築いた。

   15世紀にはアルブレヒト2世がドイツ王に選出され(1438年)、フリードリッヒ3世(1415-1519)はドイツ王に選出される(1446年)。15世紀末から16世紀初めにかけて、ハプスブルク家中興の祖として有名なマキシミリアン1世(1456-1519)が登場する。1477年、マキシミリアンはブルゴーニュ公国のマリア・フォン・ブルグントと結婚する。「汝は戦争せよ、我は結婚する」という言葉通り、ハプスブルク家がヨーロッパの広大な世襲領土を獲得したのは、結婚政策によるところが大きい。ブルゴーニュは当時ヨーロッパの経済的繁栄地だった。

    16世紀になると、カール5世(1500-1558)のときにハプスブルク家支配の世界帝国が現出した。しかしカールは、ドイツ国内の新教弾圧に失敗し、1556年オーストリアの所領を弟フェルナンドに、スペイン王国・ネーデルランド・ナポリ王国、その他ヨーロッパおよび海外領土をすべて嫡子フィリップに譲って退位した。以後ハプスブルク家はオーストリア、スペインの両家に分かれ、ともに17世紀初めころまでヨーロッパで指導的地位を占めた。

   17世紀、男子の出生に恵まれなかったカール6世は、娘のマリア・テレジアを相続人として、所領の不分割と相続を定めた国事詔書(プラグマティシュ・ザンクツィオン)いわゆる女子領土相続法を定め、列強の承認を求めたが死後、オーストラリア継承戦争で空文化する。

    マリア・テレジア(1717-1780)のときロートリンゲン家よりフランツ1世を迎え、これをハプスブルク・ロートリンゲン家とよぶ。その後1806年同家はナポレオンのため神聖オーストリア皇帝と称し、20世紀にいたったが、1918年第1次世界大戦の結果、カール1世は退位し、ヨーロッパの名門はここに終末した。

2006年9月 5日 (火)

太宰治と無頼派

    敗戦後の太宰治は、坂口安吾・織田作之助・石川淳などとともに無頼派と呼ばれ、戦後混乱期文壇の寵児と目された。戦後の荒廃の中でいちはやく活動を開始した文学雑誌は、大正作家、新感覚派作家に続いて太宰ら昭和10年前後に文壇にデビューした作家に登場を促した。彼らが無頼派あるいは新戯作派と呼ばれたのである。太宰は、疎開中の昭和20年秋、仙台の「河北新報」に『パンドラの匣』を連載する。この後半で、作中人物に「無頼派」(リベルタン)を宣言させたのである。これが無頼派の名の由来だとする説もある。太宰がここで意図したことは、戦後論壇の自由主義の連呼を「時局便乗」の「サロン思想」として攻撃することにあった。敗戦という「新現実」を迎えて、太宰の渇望したのは「道徳革命」であった。昭和21年前半には「アナキズム風の桃源」を夢見たりもした。この時期の太宰の発言は、坂口安吾の『堕落論』などとともに、既成の倫理を否定し人間の復活を呼びかけるものとして、価値観の転倒に戸惑う人々に強い共鳴を呼んだのであった。

    しかし、戦後文壇にこの無頼派の後を追って登場したのは第一次戦後派であった。そして「近代文学」派は、第一次戦後派を押し立てて、今こそ日本にはじめて本格小説を実現させねばならぬと意気込んだ。平野謙は、伊藤整の論に導かれながら、太宰は「破滅型私小説」と分類し、第一次戦後派によって超えられるべきものと規定した。以後長い間、太宰文学はこの延長上で評価されてきたと言える。

2006年9月 3日 (日)

古代中国の玉

   玉は古代より中国人が最も珍重した素材でその神秘な色合いと滑らかな肌合い、そして年を経ても不変不滅のまま存在することが、中国人に永遠不滅の神聖感を与えることになったのであろう。玉には生命の不滅を与える霊力が宿ると考えられて、死者への葬送品や、貴人が身につけたり居室に吊り下げて飾る玉環、玉璧、玉魚などのほかに玉の印璽、刀剣装具が作られた。後世になると、玉製品は装飾品や花器、器物など多種多様なものが作られるようになるが、漢・三国時代には、まだ上に記したような、いわば象徴的な装身具が主体であった。

   玉は「崑崙の玉、禹氏の珠」という対句によって中国では知られるように、崑崙山中ないしは、その麓野を流れるユルン・カシュ川に産出した。そのほか陝西省藍田県にも美玉を産したことが『前漢書』の地理誌に現れている。もちろん、その他の地方からもいろいろな玉が産出した。当時、「隋侯の珠、和氏の璧」と呼ばれた和氏の楚国は、今日の湖南地方で、これもまた名玉とされ、対句にまでなって珍重された一例である。玉には硬軟2種があり、崑崙(干闐)の玉は軟玉、和氏の玉は硬玉であったといわれる。この時代には、軟玉のほうがより重用されていた。

石原莞爾の情勢認識

    陸の橋本欣五郎(1890-1957)、海の三上卓(1905-71)を先頭とする昭和維新派の内先外後戦略ともいうべきクーデター陰謀が失敗に終ったのに対して、外先内後戦略をひっさげて「満州事変」の大謀略に成功したのが石原莞爾(1889-1949)中佐であった。熱烈な日蓮教徒である石原は、蒙古襲来による国難を予言した日蓮の危機意識を現代意識にダブらせており、「世界最終戦」に備えての日本の「挙国一致国難ニ当ル」体制を確立する突破口を、関東軍による「満蒙占領計画」に求め、「五族協和・王道楽土」の「満州国」建設を牽引車とする高度国防国家体制の樹立を図ったのである。このような石原構想の発案は、「危険ナル我等ノ隣人、ソヴェト連邦」の影響により、「支那辺境ノ諸省ハ悉ク之ガ摩中ニ陥ル」おそれありという情勢認識、「匪賊を赤化しつつ彼等を反満抗日の旗の下に結成せしめている」現状の下で、「全国民の八割乃至九割を占むる農民の下層部分が赤化されることは、日本の対満国策の遂行、従って満州の健全なる発達にとって最も恐ろべきことの一つ」であるという情勢認識にあった。要するに、孫文の遺嘱通りソ連と提携した場合の中国国民革命の赤色化への鋭い恐怖的対抗が、石原世界戦略の発案であった。

青年将校の危機意識

    三月事件、十月事件(錦旗革命事件)の首謀者である橋本欣五郎の桜会の趣意書には、「現今の社会を観るに、高級為政者の冒涜行為、政党の腐敗、大衆に無理解なる資本家、華族、国家の将来を思はず国民思想の退廃を誘導する言論機関、農村の荒廃、失業、不景気、各種思想団体の進出、糜爛文化の躍進的台頭、学生の愛国心の欠如、官公史の自己保有主義、等邦家の為、まさに寒心に堪へざる事象堆積たり」とあり、「此時に当り辛ふじて少なくとも一定の主義と熱とをもって奮闘しつつあるを独り左傾団体にのみ見出さざるぺからざるの奇現象は果たして吾人に何を教示するか」とある。三六危機を叫び、昭和維新の魁となったエリート青年将校の思想の特色はこうして、既成体制に安住する旧支配層とはきわめて異質な危機の時代意識であり、「左傾団体」に拮抗する主義と熱にあったと言える。

2006年9月 2日 (土)

太宰治と小山初代との出会い

   太宰治をめぐる女性は多いが、最初の女性・小山初代(1912-1944)との関係をぬきにしては太宰の生涯を語れないだろう。昭和2年、19歳の太宰は義太夫を習い、花柳界にも出入りするようになった。秋ごろから青森の芸者紅子(小山初代、16歳)と馴染みになる。太宰が初代に、東京で一緒に暮らす気はないかと話をもちかけると、初めのうちは太宰の冗談としか受け取っていなかった。県内屈指の大地主の息子で、いずれは帝大生としてエリート・コースを歩む太宰が、芸者を妻にするはずはないと思っていた。しかし、太宰が夢見ていたのは、肉親に内緒で芸者と同棲して江戸の文人趣味に浸ることであって、初代の考えているような「結婚」ではなかった。ここに二人の「夢」の食い違いがあった。

   ところが、その後土地の有力者から初代を愛妾にしたいという話が持ち上がったので、初代は太宰の義弟・小館保を通じて太宰家と連絡をとり、太宰の指示にしたがって、昭和5年10月、東京へ出奔する。長兄は初代と一緒に暮らすつもりだという太宰の意思を確認したうえで、二人の結婚を承認する。昭和6年2月、東京品川区五反田の新築の一軒家で太宰たちの新婚生活が始まる。太宰23歳、初代20歳の冬である。

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