芥川龍之介と大阪毎日新聞社
芥川龍之介(1892-1927)は大正4年に「羅生門」、翌年に「鼻」と名作を次々と発表したが、生活は苦しかった。大学卒業後、海軍機関学校の英語教師となる。大正6年に「戯作三昧」(10月20日から11月4日)を大阪毎日新聞に発表する。大正7年2月に生活の安定を得るために大阪毎日新聞の社友契約を結ぶ。龍之介が出した条件は、一、雑誌に小説を発表する事は自由の事 一、新聞へは大毎(東日)外一切執筆しないこと 一、報酬月額50円 一、小説の原稿料は従来通り など5項目よりなるものである。大阪毎日新聞に「地獄変」(大正7年5月1日から22日)を連載した。大正8年3月、大阪毎日新聞の社員となり定収入の保証を得ることとなった。出勤する義務は負わない。年に何回かの小説を書くこと、他の新聞には執筆しない、という条件で、月給130円と別に原稿料を受け取ることになる。
大正10年9月に大阪毎日新聞社海外視察員として中国へ派遣されることになった。19日に東京を出発したが、車中で発熱して大阪で下車、27日に大阪を発って西下したが下関で再び発熱し、28日門司発の筑後丸で上海へ向かった。ところが、上海到着の翌日から乾性肋膜炎をおこして約三週間里見病院へ入院した。退職後、大阪毎日新聞記者の村田攷郎や島津四十起、学生時代からの友人ジョーンズ、西村貞吉などの案内で、観劇や市内観光をしている。帰国後も、中国旅行の無理がたたって病床に伏すことが多くなった。「神経衰弱の最も甚しかりしは大正10年の年末なり」(病中雑記)という。
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