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2006年8月 5日 (土)

竹久夢二が描く女たち

    竹久夢二(1884-1934)は岡山県邑久郡本庄村119に、父菊蔵、母也須能(やすの)の次男として生まれる。名は茂次郎(もじろう)。家業は造り酒屋だったが、家産が傾き、16歳のとき、神戸で米屋を営む叔父竹久才五郎に身を寄せ、神戸中学校(のちの神戸一中、現在は神戸高校)に入学するが、8ヵ月で中退。18歳の夏に家出して上京、第一銀行重役土岐に見出され、書生として住み込む。早稲田実業学校に入学するが中退。牛乳や新聞の配達をしながら白馬会の研究所に通い、荒畑寒村のすすめで社会主義雑誌「直言」(平民社)に風刺画をのせ、21歳のときコマ絵が『中学世界』などに当選したのを機に画業に専念することになった。

    明治39年頃、夢二は早稲田鶴巻町にある小さな絵葉書店「つるや」を訪ねた。彼はそこで眼の大きな女性と出会う。金沢生まれの未亡人で、5日前にこの店を開いたばかりの岸他万喜(たまき)であった。翌年、二人は結婚するが、二歳年上の気の強いたまきとの生活はいさかいが絶えなかった。二人の結婚はわずか二年で破綻するが、夢二は彼女をモデルにして制作に励み、のちに目がつぶらで、胸うすく、だが手足の大きな夢二式美人が誕生し、これにセンチメンタルで素朴な詩文が加えられ「眼が大きく哀しく美しい女性」のスタイルは、明治末から大正初期にかけて、一世を風靡した。たまきとの関係も籍の上では他人になったものの、幾年にわたって同居と別居をくり返す。長男虹之助(明治41年生)ののち、不二彦(明治44年生)、草一(大正5年生)が誕生しており、たまき以後は夢二に子どもはできなかった。

    第二の女性、笠井彦乃は本郷菊坂女子美術学校に通う20歳の画学生で、紙問屋・笠井宗重の長女である。二人の出会いは、大正3年に夢二が日本橋呉服町に「港屋」を開店し、可愛らしいものを売る店と人気を呼び、また、文人趣味の集うサロンでもあった。彦乃はその店の近くに住むことから、彦乃が夢二のファンであり、夢二から絵を習いたいと訪問したことから交際が始まる。二人はやがて結ばれ、親の反対を押し切り、大正6年には二人は京都に住む。8月から10月まで、石川県粟津温泉、金沢市、湯涌温泉を旅行する。しかし、彦乃は大正9年1月19日、死去。享年25歳。

    たまき去り、彦乃逝く。しかし、モデルなくては生きていけない身の上である。大正10年8月、お葉(夢二が名付ける。本名は佐々木カ子ヨ)と世帯をもつ。お葉は藤島武二などのモデルをつとめた後に、夢二のモデルとなり、その後、同棲。一児をもうけるが、大正14年5月、山田順子が現われ、お葉は自殺を図り、半年後に去っていった。

    山田順子は、当時の女流作家で長編『流るるままに』がある。夢二との関係は、その郷里秋田県本庄荘にともに行ったりしたが、ふた月後の7月には別れてしまった。順子はその後徳田秋声と同棲をはじめたという自由奔放な近代女性だった。

    夢二は、昭和9年1月、結核により友人正木不如丘の経営する信州富士見高原療養所に入院。9月1日、死去。享年50歳。、

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