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2006年8月14日 (月)

田中王堂と石橋湛山

    田中王堂(1867-1932)。明治22年渡米し、神学校、ケンタッキー大学、ついでシカゴ大で学ぶ。8ヵ年にわたる留学中にJ・デューイの思想を学び、日本における最初のプラグマティズムの紹介者となる。その思想はプラグマティズムを受け入れるも、傍ら象徴主義の色彩の濃いもので「王堂哲学」とよばれる独自なものである。

    明治30年代半ば、早稲田大学文学部哲学科には、島村抱月、金子馬治、安倍磯雄教授らのほかに、田中王堂がいた。若き石橋湛山が最も傾倒した人は、田中王堂だった。石橋は後に「もし今日の私の物の考え方に、なにがしかの特徴があるとすれば、主としてそれは王堂哲学の賜物であるといって過言ではない」と語っている。埼玉県所沢市近郊にある田中王堂の墓碑には、石橋の筆になる「徹底せる個人主義、自由思想家として最も夙く最も強く、正しき意味に於て日本主義を高唱し、我国独自の文化の宣揚と完成とに一生を捧げたる哲学者田中王堂此処に眠る」との碑銘が刻まれている。

 田中は明治40年代前後の自然主義文学勃興期に、「明星」誌上などで島村抱月や岩野泡鳴ら自然主義文学者たちに深刻なる哲学的批判を加え、また、夏目漱石の「文学論」についての長文の批判を含む著作「書斎より街頭に」(明治44年)の発表によって論壇の注目を浴びるにいたった。彼は、大正・昭和期を通し、ドイツ観念論哲学全盛の当時にあって、英米系経験哲学を身に体した哲学者として、かつまた、日本の精神的土壌からも深く学んだ特異な自由思想家として活動していったのである。

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