太宰治と芥川賞
昭和11年、28歳の太宰治が選考委員の佐藤春夫や川端康成らに宛てた受賞を請う手紙が残っている。
「佐藤さん一人がたのみでございます。私は恩を知って居ります。私はすぐれたる作品を書きました。これからもっともっとすぐれたる小説を書くことができます」(佐藤春夫宛書簡)「何卒 私に与へてください。一点の駆引ございませぬ」「私を見殺しにしないでください」(川端康成宛書簡)
太宰が芥川賞に執着する理由は三つ考えられる。一つは、大学も卒業せず、就職試験にも失敗した太宰が、せめて芥川賞でも獲得して家郷の人たちへお詫びしたい。二つ目は、パビナール購入の金に窮して心ならずも内緒の金を次兄英治に無心していた太宰にとって、芥川賞の副賞五百円は喉から手の出るほど欲しい金であった。三つ目は、太宰にとって芥川は中学時代から尊敬する作家であった。中学生の太宰が、その文学への歩みを芥川の模倣から始めたことは周知である。弘前高等学校の一年の夏、太宰は芥川の自殺の報に接して驚愕した。その二ヶ月前に青森市の公会堂で和服姿の芥川を見た直後の出来事であった。太宰のみならず、この時期の作家が共通して担った苦悩であった。芥川をいかに超えるか、という昭和作家に共通の課題を、太宰もまた背負ったのである。
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昭和10年7月、新進作家とデビューした太宰治は「逆行」と「道化の華」が第一回芥川賞の最終候補に上がった。だが選考の結果、受賞作は石川達三の「蒼氓」に決まり、太宰を落胆させた。芥川賞選考委員の川端康成は「道化の華」を評して、「私見によれば、作者目下の生活に厭な雲ありて、才能の素直に発せざる憾みあつた」と述べた一文に太宰は激怒したといわれる。太宰は早速「小鳥を飼ひ、舞踏を見るのがそんなに立派な生活なのか」とからんだ。
昭和11年8月初旬、第三回芥川賞(第二回は該当作なし)候補に「晩年」が上がっていることを佐藤春夫から知らされた太宰は、今度こそは受賞できるものと確信した。しかし受賞は鶴田知也「コシャマイン記」に決まり、またしても太宰の空振りに終った。佐藤に裏切られたと思った太宰は、短編「創生期」の中で芥川賞楽屋噺を暴露し、これに対して佐藤は実名小説「芥川賞」で太宰の妄想癖を強調して応酬するという一幕を演じた。この茶番劇では、からんだ太宰よりも弁明に努めた佐藤のほうが文壇雀どもの嘲笑を買い、かえって「異才の新人太宰治」を強く人々に印象づける結果となった。井伏鱒二が師匠格の佐藤と相談して太宰を精神病院に収容するのは、この茶番劇のさなかのことである。
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