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2006年8月16日 (水)

「赤い鳥」をつくった鈴木三重吉

   鈴木三重吉(1882-1936)は、9歳のとき母を失い、祖母に育てられた。生来、神経質であったが、東大在学中に強度の神経衰弱で休学している。わが国児童文学の母胎ともいうべき「赤い鳥」という雑誌の主宰者である鈴木三重吉とはいかなる人か。今日残された証言をあつめ、三重吉の実像に迫りたい。

1,坪田譲治の証言その1

    坪田譲治は、昭和33年発行の『赤い鳥代表作集』(小峰書店)で次のような「まえがき」を書いている。「赤い鳥という雑誌は大正7年7月に創刊され、昭和11年8月までつづきました。尤もその間に1年9ヵ月の休刊がありました。然しその17ヵ年の間に195冊の実に立派なわが国児童文学の光ともいえるような雑誌が出ております。これこそ、わが鈴木先生が37歳の時から55歳で亡くなられるまで、その半生をかけてこられた大事業だったのであります。亡くなられる数日前まで、赤い鳥のために病躯をかって、あえぎあえぎ原稿を書かれたことを見ても、その児童文学のためにどんなに熱情をもたれていたということが思われます」

2.坪田譲治の証言その2

    坪田譲治は、昭和9年の元日、紋付羽織、それに袴まではいて、鈴木三重吉邸へ年賀に伺った時のことである。三重吉は、「それで毎号よく直してさし上げてるんだが、どうですかね」と言われた。お正月ではあるし、つい心をゆるめて、「はい、御厄介になりまして。然し先生に直していただくと、文章はとても立派になるのですが、私のねらいどころは、どういいますか、もっと素朴なところを思って居りまして」今、二人の作品を読み比べると、これは文学思考の違いからくる当然の意見なのだが、これで大変なことになった。「ようし、そんなことを言うなら、これから坪田譲治論をして聞かせる」という次第で、さんざんな目にあい、居たたまれず辞去した。門までは10間もあるのに、そこを歩いているうちに涙がこみあげてくるのを押さえきれなかった。時に譲治44歳の新春である。翌日、譲治は書初めの短冊に、「吾れは窮鼠なり、文学の猫を噛まん」と書いた。文学の上でも生活の上でも、追いつめられた鼠のように、譲治にとっては一番苦しい時であった。そういう中でたまたま、三重吉の一喝が、逆に励みになって、書き初めにこういう文学に燃える不退転の決意が表白されたのである。

3.丹野てい子の証言

    先生は、文章は、非常にやかましかった。同じ意味でも、言いまわし方が、先生とおなじ言葉づかいでないと、気に入らない。文字も、「おわりました」を、「了りました」ではいけない。「まったく」を「全く」、「ながら」を「乍ら」でもいけない。これに類することは、その他数々ある。機嫌のわるい時に、下手なものを書いておめにかけると、大へんだ。「こんなことが、わからないのか」といって、じつに、大へんな見幕である。真赤になって、怒るどころではなく、まっ黒になって、そこらを、烏天狗が飛び廻っているような工合である。ある時、あまり叱られて、情けなくなって、隣室へ行って箪笥の前で、泣いていたら、夫人のおくさんがこられて、箪笥のひきだしをあけながら、「誰でもああいうように、叱られるんですよ。仕方がないんですよ。私だって、いつも叱られるんですよ」と慰められた。夫人が、私に話しかれたのは、あとにも、さきにも、このときだけのような気がする。私も、夫人に、話かけることもしなかったが、お互に反目しているわけでは勿論なかった。夫人も私も、他人につとめるということを知らない、世間しらずであったろう。そして、つべこべ、夫人に、お世辞をいわないですんだ。鈴木家は、今考えると、いい家庭だったとおもう。(「赤い鳥」と私  野町てい子)

4.小島政二郎の証言その1

   私は「睨み合」という作品を持って三重吉のところへ見せに行ったところ、彼の点の辛いのに私は目を白黒させた。彼は全体のよし悪については一言も言ってくれず、一行一行、一節一節について微に入り細を極めた批評(といよりも指導を)いや、実に意地の悪いアラ探しをして聞かせた。(中略)それは弟子や後輩に対する態度ではなかった。競争相手に対するような冷酷なところがあった。人でも変わったかと思われ、思わず彼の顔を見ないではいられなかった。私は「睨み合」で、完膚なきまでにやっつけられた。三重吉の言うところをそのままに受け取れば、私には一つもいいところがなかった。

5.小島政二郎の証言その2

    私の知っている範囲では、三重吉は人間を駄目にし、いい天分を持っている人をも枯らしてしまう藪枯らしのような性格を持った不思議な人物だった。もっとも、この前後から、彼自身が枯れて行きつつあったのだ。酒ばかり飲んでいて、勉強を一切せず、持っていたものを出し尽くしてしまえぱ、枯渇するのは当たり前だ。「中央公論」に書いた「八の馬鹿」を最後に、彼は書けなくなった。

6.小島政二郎の証言その3

    三重吉は一つのことを思い込むと、気違いのようになってすさまじい情熱を燃やす。そういう時の彼を見ていると、天才かと思う。が、彼の情熱は長く続かなかった。「赤い鳥」に対する情熱も、この山田耕筰指導の音楽会までで、それを頂点にしてあとは惰性に安んじるようになった。とにかく雑誌を出しさえすれば、毎月きまって生活費の心配はなく、その上振替にはしじゅう金がはいって来るし、生まれて初めて小切手を切るほど銀行に貯金も出来た。(中略)三重吉は、前にも言ったように、不思議に相手の運命をメチャメチャに狂わしてしまう台風の目のようなものを持っていた。お藤さんもその犠牲者だったし、彼の自ら言うところに従うと、「小鳥の巣」は半分以上自叙伝だという。もしそうなら、あれに登場する万千子も、彼の犠牲者だ。彼の弟などは、その最も甚だしい犠牲者の一人だった。三重吉はいざとなると、冷酷無慙になれるエゴイストだった。彼は、愛する者を幸福に出来ず、あべこべに不幸のドン底へ突き落とす異常な性格を持っていた。その第何番目かの犠牲者が楽子だった。

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