ニーチェとローデと『悲劇の誕生』
ニーチェの最も親しい友人の一人であったエルヴィーン・ローデ(Erwin Rohde 1845-98)は、後にイェーナ大学、ハイデルベルク大学などの教授を歴任したギリシア宗教史の研究家である。
ニーチェの処女作『悲劇の誕生』は、1872年1月に刊行されたが、その評判は悪かった。ニーチェの師でさえ、日記に「ニーチェの本、悲劇の誕生(才気走った酔っ払い)」と記したほどで、学界からしばらくは完全な黙殺状態が続いた。
1872年6月、ヴィーラモーヴィッツ・メレンドルフは、ニーチェの卒業した高等学校プフォルタ学園の後輩で、「ニーチェ殿、貴君は母校プフォルタに何という恥をかかせたのだ」という『悲劇の誕生』に対する攻撃文で始まる「未来の文献学」というパンフレットを書いて、ニーチェの誤謬を詳しく論駁した。
1872年10月、このメレンドルフの攻撃に対して、『似非文献学』というパンフレットで擁護のための論陣を張ったのが友人のローデである。次の一文が、ニーチェおよびローデのギリシア観の核心が何処にあったかをよく物語っている。
「しかしもし美に耳を傾ける者すべてによって感じ取られた神話的悲劇のディオニュソス的真実を言葉、すなわち概念によって示唆することさえも困難であり、究明することなど不可能だとすれば、その理由は、ここで世界の最も深い秘密があらゆる理性やその表現であるふつうの言語よりはるかに高次な言語によって語られているからである。」
ともかくニーチェは処女作の不評によって、スイスのバーゼル大学の冬学期には文献学専攻学生の聴講皆無となった。しかしこうした『悲劇の誕生』の悲劇的反響にもかかわらず、現在『悲劇の誕生』はニーチェの代表作の一つといわれている。ギリシア文献学とワーグナー芸術とショーペンハウアー哲学が基本的要素であるが、ニーチェの個性的思想と文明批評があり、一種の「魔女の飲み物」といわれるような刺激的な書物である。後世の芸術家に与えた影響は大きく、たとえば朝日新聞社の「一冊の本」に、画家の岡本太郎や音楽評論家の吉田秀和などは、ともに『悲劇の誕生』を推していることはなど興味深いものがある。
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