聞かせてよ、愛の言葉を
リュシエンヌ・ボワイエ(1903-1983)は、本名をエミリエンヌ・アンリエット・ボワイエといい、パリのモンパルナスで生まれました。第1次世界大戦で父が戦死してから、生活が苦しくなり工場で働きながら、画家のモデルをしていましたが、1918年のある日、アテネ座のタイピスト募集の広告を見て応募し、採用されましたが、タイプの打ち方などはもとより、知る筈もありません。ただ歌と踊りが大好きで、ステージにあこがれていたのです。支配人にそのことを話すと、幸い彼の同情を得て、彼女は生まれてはじめて舞台に立たせてもらいました。エーメ・サミュエルという話し方の先生が彼女に歌の素質があることを見抜き、歌手への道をすすめました。そして16歳のとき、サン・ドニの小さなミュージック・ホール「コンコルディア」でデビューしました。その後、アメリカからやって来たリー・シューバートという興行師が彼女に目をつけ、ブロードウェイへ連れて行きました。帰国後、レコードを吹き込んだのが「私が愛してるかと聞いているのね」という曲で1928年のことでした。
1929年のある日、ボワイエは作曲家ジャン・ルノワールの家をたずねました。ジャンは、自分が1923年に作詞・作曲した曲「聞かせてよ、愛の言葉を」を、あるソプラノ歌手にレッスンしていました。ボワイエはその美しい曲を聴いて「私にもうたわせて」と頼みました。彼女のささくやようにしっとりと歌いあげる甘い歌声はすばらしいものでした。そして翌年にレコーディングされ大評判になりました。第1回ディスク大賞を獲得しました。
当時は暗い現実的なシャンソン(シャンソン・レアリスト)が愛唱されていましたが、この曲の流行によって甘くロマンチックなシャンソンも好まれるようになりました。ボワイエは、「シャントゥーズ・サンチマルタン」(感傷的女性歌手)と呼ばれ、シャンソン・ド・シャルム(魅惑のシャンソン)の代表的な歌手の先駆者となりました。また彼女の成功は、同時にレコードという新時代をつくり、シャンソンが世界的に人気を博しました。わが国では、1933年に佐藤美子が日本最初のシャンソン・リサイタル「パリ流行歌の夕べ」を開き、その中で初演しました。その後、タカラヅカなどで盛んにうたわれ、シャンソン・ブームが到来しました。戦時中、武満徹は中学学徒動員で、兵隊からそっと隠れて手回し蓄音機でこの曲を聴いて作曲家になることを決意したといっています。
*
聞かせてよ きみが甘きことば
聞かせてよ きみがやさしことば
私の心に ささやくきみ
愛すと
あなたの やさしいことばこそ
私のこころよ
いつもささやくとき
私の心は うれしさにはずみ
小さな小鳥のように震えているの
聞かせてよ きみが甘きことば
聞かせてよ きみがやさしことば
私の心に ささやくきみ
愛すと
菅美沙緒訳詩
:*
聞かせてよ、愛の言葉を
もう一度いってよ、甘いことをいろいろと
美しい話は
幾度聞いてもいいもの
いつまでも
この素晴らしい言葉が繰り返される限り
私はあなたを愛す
*
ごぞんじでしょう
あなたの言葉を
ぜんぶ本気で信じはしないけれど
私はまだ、もっと好きなこの言葉を聞きたいの
愛撫するようなひびきを持ったあなたの声
ふるえながら愛の言葉を囁くその声は
美しい話をしながら、私を静かに揺する
心ならずもつい
愛の言葉を信じたくなってしまう
*
とてもすてき
私の大事な宝物さん、幾分馬鹿になる事は
人生なんてしばしばあまり残酷すぎるから
もし夢を信じなければ
苦しみは直ちに消えて
慰められる心からのくちづけに
傷も癒される
愛を約束する誓いによってね
橋本千恵子訳詞
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