リュシエンヌ・ドリール「ルナ・ロッサ」
リュシエンヌ・ドリール(1917-1962)。戦後のシャンソンブームで、人気のあった女性歌手といえば、イベット・ジロー、ジュリエット・グレコ、そしてリュシエンヌ・ドリールあたりでしょうか。
リュシエンヌ・ドリールは、本名をリュシエンヌ・トランキュといい、1917年にパリで生まれた。父はガラス工だったが、幼いころに両親を亡くし、彼女は叔母の手で育てられた。歌い手になったのは、1937年のことである。場末の踊り場でうたったり、テアトル・ド・ベルヴィル(ベルヴィル劇場)という下町の小屋に出演したりした。
やがて、戦争直前の1939年、ラジオ・シテが主催する「若者たちのミュージック・ホール」というコンテスト番組に応募した彼女は、「外人部隊の旗」(マリ・デュバやエディット・ピアフの持ち歌として名高いシャンソン・レアリスト)をうたって、第2位を獲得した。
1940年パラマウントと契約したドリールは、ここで「外人部隊の歌」「若者は歌う」の2曲を歌った。1942年、ドリールの最初のヒット曲「私の恋人」(原題は「サン・ジャンの私の恋人」)が生まれた。ようやく彼女はスターとして認められ、「ABC」や「ウーロペアン」など、一流のミュージック・ホールに出演した。1944年、エーメ・バレと結婚した。やがて、彼女はヨーロッパ諸国を巡演し、さらにリオ・デ・ジャネイロで大成功を収めた。1946年には、「私を抱いて」が大ヒットし、1947年度のACCディスク大賞を受賞し、名声を確立した。それから数年間が、彼女にとって幸せな時期だった。1952年の「ルナ・ロッサ」、1953年の「恋はせつなく」は日本でもヒットした。
しかし、幸せは続かず、1957年には白血病で倒れた。1960年11月、小康を得て、彼女はレコーディングを行い、ボビノ座に出演した。しかし、公演なかばで、ふたたび倒れる。それが最後の舞台だった。1962年4月10日の夕暮れ、モンテ・カルロの病院で、ドリールは夫と娘に見守られながら、静かに息を引きとった。
*
サン・ジャンの私の恋人
なぜだか分からないが、私は、
サン・ジャンの日に、踊りに行った。
そして、ただ一度の接吻で、
私の心はとりこになった。
どうしたら正気でいられるというの
大膽な腕に抱きしめられても。
いつだって信じてしまうのよ、
甘い愛の言葉を、
目で語りかけられれば、
私はとても彼を愛した、
彼を、
サン・ジャンの日の一番の美男子と思った。
すっかりうっとりして、
意思の力も失ってしまった、
彼にキスされながら。
その時からもう、考えもなく、私は彼に、
一番いいものを上げてしまった。
口のうまい人、彼がうそをつく度に、
私はそれを見抜いた、でも愛していた。
他の日と同じように、サン・ジャンの日も
誓いの言葉は、只の誘いのわなだった。
私は自分の幸福を信じようと
彼の心をつなぎ止めようと必死になった。
どうしたら正気でいられるというの、
大膽な腕に抱きしめられても。
いつだって信じてしまうのよ、
甘い愛の言葉を、
目で語りかけられれば。
私はとても彼を愛した、
私の美しい恋人を
サン・ジャンの日の私の恋人を。
彼はもう私を愛してはいない。
もう過ぎたことだ。
だから、この話は止めにしよう。
(橋本千恵子訳詩)
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