夏目漱石の学生時代
夏目漱石は尾崎紅葉、幸田露伴、正岡子規等と同い年である。しかし文壇的出発はだれよりもずっと遅い。彼の文名が高くなったころには紅葉も子規もすでにこの世にはいなかった。これは、彼の学生時代が長かったことと、大学卒業後主として地方教師生活を長く続けていたためによる。もちろん、そのために知識経験が蓄積され、作家生活にはいってから優れた作品が堰を切って押し出され、停滞するところがなかった。
では長い漱石の学生時代を調べてみよう。
漱石は、明治16年(16歳)9月、大学予備門受験のため、神田駿河台の成立学舎に入学。好きな漢籍を売って、英語を勉強した。同級に橋本左五郎、太田達人、中川小十郎、佐藤友熊らがいた。
明治17年(17歳)9月、大学予備門予科入学。同級に中村是公、芳賀矢一、橋本左五郎がいた。だが、漱石は何をもって世に立つべきか容易に決心できなかったらしい。「漢籍や小説など読んで文学といふものを面白く感じ、自分もやって見ようといふ気がした」が、次兄の直則に「文学は職業にやならない」とさとされ、その志望を諦めたとは、漱石自身の語った有名な挿話である。高等学校時代(明治19年に大学予備門が第一高等中学校と改称された)、建築家になりたいと思った。ところが、友人の米山保三郎に「日本でどんな腕を揮つたつて、セント・ポールの大寺院のやうな建築を天下後世に残すことは出来ないぢやないか」といわれ、いよいよ文学者になる決心をした。が、そのころになると、もう「漢文科や国文科の方はやりたくなかった」。で、英文科を志望したのだという。明治21年(22歳)1月、同級生に正岡子規と知り合う。この交遊は漱石の作家生活に大きな影響を与える。
明治23年(23歳)、9月、帝国大学文科大学英文科に入学。文部省貸費生となった。明治26年(26歳)1月、帝国大学文学講話会で「英国詩人の天地山川に対する観念」を講演。外山正一らに注目され、3月から6月まで「哲学雑誌」に発表。7月、文科大学英文科第2回卒業。ただ一人の卒業生であった。英語きらいのはずの漱石は、たちまちディクソン教授を驚かすほどの語学力を発揮し、成績はずばぬけて優秀で、特待生となった。正岡子規は、国文科に席をおき、漱石に俳句熱を吹きこんだが、二年の試験に落第して大学をやめ、文筆生活にはいった。
大学を卒業し、大学院に入り、英文学をさらに深く究めようと思った。学力が優秀であったから諸所から就職の口がかかり、嘉納治五郎に口説かれて、年俸450円で高等師範学校の英語教師を嘱託された。学生時代からの東京専門学校の方にも出講していた。
しかし漱石はいくら研究しても、文学はわからず、自分は未熟低劣で、「是でも学士か」と、内心忸怩たるものがあった。そのうえ、翌年2月に血痰を出し、医師に肺結核の初期と診断されて専心療養につとめ、弓道を習った。二人の兄を結核で失っていたから、神経質にならざるを得なかった。「虚空につるし上げられたる人間」のような思いで、シェリー詩集1巻と松島や湘南に漂泊し、あるいは大学の寄宿舎を出て、小石川の法蔵院に下宿した。尼寺の尼僧の振舞に腹を立て、親友菅虎雄の紹介で鎌倉の円覚寺を訪ね、釈宗演から「父母未生以前の本来の面目如何」の考案の前にぐぁんと参った。帰源院に参禅し、宗活を知ったが、結局、参禅は失敗に終わった。しかし自力で解脱の道を行こうとする禅宗は漱石の心にかなったものであったから、参禅に失敗しても、「心の実質を太くする」ことを学び、漱石の思想の立退き場所のような影響を及ぼしていた。
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