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2006年8月14日 (月)

坪田譲治と毛利宮彦との奇縁

    アメリカでの図書館学留学を終えて帰国した毛利宮彦が、早稲田大学図書館に辞表を提出したのは、大正6年10月3日、宮彦31歳のことだった。時期を同じくして、童話作家で知られる坪田譲治(1890-1982)は、早稲田大学図書館に勤めるようになった。譲治27歳のことである。

   坪田譲治は、明治41年、早稲田大学英文科1年に進級し、坪内雄蔵、金子馬治、島村滝太郎、五十嵐力、吉江喬松、片上伸、長谷川天渓らの講義を聴く。同級生には、細田民樹、保高徳蔵、鷲尾雨江、西条八十、細田源吉、青野季吉、直木三十五、生田蝶介、国枝史郎、嶋中雄策、広津和郎、谷崎精二らがおり、いずれも大正時代の近代文学を背負って立った人物がこの学窓で育てられていった。坪田は大正4年に前田浪子と結婚し、その翌年10月に早稲田大学図書館に勤めた。その頃、次第に童話創作へと傾いていった坪田にとって、図書館の仕事は単調な仕事の連続でおもしくろないものであった。大正7年3月には図書館をやめることになった。

   毛利宮彦は図書館学専門の司書であり、坪田譲治にはほとんど図書館の知識はなかったものと推測されるので、たまたま時期が前後しただけで、坪田が毛利の後任であるとは考えにくいが、著名人が人生の岐路に交錯することは奇縁といえよう。

   戦後のまもない昭和21年に毛利宮彦は「大泉文庫」を開設している。児童文学者の第一人者となった坪田譲治も、昭和36年に「びわのみ文庫」を雑司ヶ谷の自宅に開設している。はたして大正6年10月頃、毛利と坪田の二人が面識があったのか、なかったのか。文庫開設した二人は青年期の図書館勤務の経験が晩年によみがえったのだろうか。疑問は果てしない。

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