小学一年を落第した谷崎潤一郎
谷崎潤一郎(1886-1965)は、明治19年7月24日、東京市日本橋区蠣殻町に生まれた。父・谷崎倉五郎、母関。明治24年に伯父・久兵衛の援助で父は米穀仲買人となり、店を出す。幼稚園がきわめて珍しかった時代に、両親から大切にされかわいがられていた潤一郎は、この年の秋に霊岸島の小岸幼稚園に通わされる。明治25年、坂本小学校に入学する。しかし乳母などの付添いなしにひとりで教室に入ることを嫌い、素晴らしい晴着を着た金持ちの坊ちゃんが式の日など講堂に入りたくないと大声で泣き叫び、あれは役者の子かなどと全校の評判になった。そのためもあり学校へほとんど行かず、二年進級の時、原級に差しとめになった。また一年生からやりなおしたのだ。まさに、過保護児童の典型であった。しかし、二度目の一年生のときは、担任は野川誾栄(ぎんえい)先生で、次第に劣等感から脱却して、学業もできるようになった。
しかしそのころから、父の米相場師の事業は不振となり、谷崎家は没落し貧しい住居に転居する。幼い潤一郎にとっては理由のわからぬ屈辱と感じられたに違いない。(参考:『現代日本文学アルバム5 谷崎潤一郎』足立巻一ほか編)
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