谷崎潤一郎の大震災後の足どり
兵庫県芦屋市には市内伊勢町に谷崎潤一郎記念館がある。芦屋と谷崎との関係については大きく三つ点があげられる。
まず第一は、谷崎の関西移住の第一歩をしるした地が、芦屋であったこと。第二は、実際に谷崎は昭和9年から昭和11年まで芦屋に居住したこと。その住居は現在も詩人・富田砕花旧居(芦屋市宮川町)して一般公開されている。第三は、谷崎の代表作の一つである『細雪』の主要な舞台が芦屋であったこと。
第一の点については、あまり知られていない事実であるので、関東大震災後の谷崎の足どりについて調べてみよう。谷崎が、はじめて芦屋を訪ねたのは、大正12年9月5日の朝、芦屋市松の内町56番地の伊藤甲子之助宅に避難してきたときとされている。大正12年9月1日午前11時58分、谷崎は箱根の芦ノ湖畔のホテルを出発してバス車中にあって地震に遭い、山が動き、道が裂けるのを見て、すっかり地震の恐怖にとりつかれてしまった。この恐怖が後に彼の関西移住を決意させた。伊藤甲子之助は、旧姓は脇田といい、谷崎とは小学校時代の親友である。谷崎が伊藤宅を出て京都上京区等持院の京都の家に落ち着いたのは9月27日であった。10月9日に横浜の家族を訪ね、11日に東京の家族宅や親戚、知人宅等を泊まり歩いている。10月24日家族同伴で東京から上海丸で帰神、直ちに伊藤家にもどっている。11月には、京都市左京区の要法寺に移るが、12月には、兵庫県武庫郡六甲苦楽園に転居する。これから阪神間の生活が昭和20年に岡山県津山市へ疎開するまで続くのである。
« マレー沖海戦 | トップページ | 漢代隷書体の特質 »
「日本文学」カテゴリの記事
- 畑正憲と大江健三郎(2023.04.07)
- 青々忌(2024.01.09)
- 地味にスゴイ、室生犀星(2022.12.29)
- 旅途(2023.02.02)
- 太宰治の名言(2022.09.05)
« マレー沖海戦 | トップページ | 漢代隷書体の特質 »
コメント