黒田官兵衛孝高(如水)
黒田官兵衛(1546-1604)。近江国佐々木氏の一族。伊香郡黒田村にあり、父職隆は赤松の一族小寺氏を継いで姫路に移る。のち小寺姓から黒田姓に代わる。織田信長に仕え、信長に背いた荒木村重説得で、有岡城に捕らえられ長期にわたり監禁されたが、超人的な強さで節を屈さず、城内の土牢に頑張りとおした。
秀吉とは義兄弟の約束をしていた。秀吉の備中高松攻めでは水攻めを建策成功している。天正10年本能寺の変報で、茫然自失している秀吉の耳に彼は「ご運の開けさせ給うべき時が到来しましたぞ。良くせさせ給え」と囁いた。奔然、悟った秀吉の中国大返しの早業がこれから始まる。備中高松城から2万の軍勢を率いて200㎞を8日で駆け戻った。いわゆる「中国大返し」は秀吉に天下取りを決意させたといってもいい。それがわからない秀吉ではない。秀吉は智慧袋として重用はするが、優れた智謀を警戒することも忘れていない。天下取りとしての将に将たる器とみていた。それを知った孝高は、若くして嫡男長政に家督を譲り、隠居という韜晦策を取る。
石田三成と相容れず、徳川につき、慶長5年の関ヶ原役には国許の豊前中津にいた。嫡男長政は小早川秀秋を裏切らせた功績で筑前一国52万3千石の大封を与えられるが、孝高は喜ばなかった。家康が今度は忌む番である。晩年は子ども好き、和歌、書にすぐれ悠々とした生活を送った。没年59歳。本物かどうか洗礼名ドン・シメオンといった。(参考:『図説太閤記』毎日新聞社)
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