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2006年8月31日 (木)

太宰治と芥川賞

  昭和11年、28歳の太宰治が選考委員の佐藤春夫や川端康成らに宛てた受賞を請う手紙が残っている。

    「佐藤さん一人がたのみでございます。私は恩を知って居ります。私はすぐれたる作品を書きました。これからもっともっとすぐれたる小説を書くことができます」(佐藤春夫宛書簡)「何卒 私に与へてください。一点の駆引ございませぬ」「私を見殺しにしないでください」(川端康成宛書簡)

太宰が芥川賞に執着する理由は三つ考えられる。一つは、大学も卒業せず、就職試験にも失敗した太宰が、せめて芥川賞でも獲得して家郷の人たちへお詫びしたい。二つ目は、パビナール購入の金に窮して心ならずも内緒の金を次兄英治に無心していた太宰にとって、芥川賞の副賞五百円は喉から手の出るほど欲しい金であった。三つ目は、太宰にとって芥川は中学時代から尊敬する作家であった。中学生の太宰が、その文学への歩みを芥川の模倣から始めたことは周知である。弘前高等学校の一年の夏、太宰は芥川の自殺の報に接して驚愕した。その二ヶ月前に青森市の公会堂で和服姿の芥川を見た直後の出来事であった。太宰のみならず、この時期の作家が共通して担った苦悩であった。芥川をいかに超えるか、という昭和作家に共通の課題を、太宰もまた背負ったのである。

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   昭和10年7月、新進作家とデビューした太宰治は「逆行」と「道化の華」が第一回芥川賞の最終候補に上がった。だが選考の結果、受賞作は石川達三の「蒼氓」に決まり、太宰を落胆させた。芥川賞選考委員の川端康成は「道化の華」を評して、「私見によれば、作者目下の生活に厭な雲ありて、才能の素直に発せざる憾みあつた」と述べた一文に太宰は激怒したといわれる。太宰は早速「小鳥を飼ひ、舞踏を見るのがそんなに立派な生活なのか」とからんだ。

   昭和11年8月初旬、第三回芥川賞(第二回は該当作なし)候補に「晩年」が上がっていることを佐藤春夫から知らされた太宰は、今度こそは受賞できるものと確信した。しかし受賞は鶴田知也「コシャマイン記」に決まり、またしても太宰の空振りに終った。佐藤に裏切られたと思った太宰は、短編「創生期」の中で芥川賞楽屋噺を暴露し、これに対して佐藤は実名小説「芥川賞」で太宰の妄想癖を強調して応酬するという一幕を演じた。この茶番劇では、からんだ太宰よりも弁明に努めた佐藤のほうが文壇雀どもの嘲笑を買い、かえって「異才の新人太宰治」を強く人々に印象づける結果となった。井伏鱒二が師匠格の佐藤と相談して太宰を精神病院に収容するのは、この茶番劇のさなかのことである。

 

2006年8月30日 (水)

黒田官兵衛孝高(如水)

    黒田官兵衛(1546-1604)。近江国佐々木氏の一族。伊香郡黒田村にあり、父職隆は赤松の一族小寺氏を継いで姫路に移る。のち小寺姓から黒田姓に代わる。織田信長に仕え、信長に背いた荒木村重説得で、有岡城に捕らえられ長期にわたり監禁されたが、超人的な強さで節を屈さず、城内の土牢に頑張りとおした。

    秀吉とは義兄弟の約束をしていた。秀吉の備中高松攻めでは水攻めを建策成功している。天正10年本能寺の変報で、茫然自失している秀吉の耳に彼は「ご運の開けさせ給うべき時が到来しましたぞ。良くせさせ給え」と囁いた。奔然、悟った秀吉の中国大返しの早業がこれから始まる。備中高松城から2万の軍勢を率いて200㎞を8日で駆け戻った。いわゆる「中国大返し」は秀吉に天下取りを決意させたといってもいい。それがわからない秀吉ではない。秀吉は智慧袋として重用はするが、優れた智謀を警戒することも忘れていない。天下取りとしての将に将たる器とみていた。それを知った孝高は、若くして嫡男長政に家督を譲り、隠居という韜晦策を取る。

   石田三成と相容れず、徳川につき、慶長5年の関ヶ原役には国許の豊前中津にいた。嫡男長政は小早川秀秋を裏切らせた功績で筑前一国52万3千石の大封を与えられるが、孝高は喜ばなかった。家康が今度は忌む番である。晩年は子ども好き、和歌、書にすぐれ悠々とした生活を送った。没年59歳。本物かどうか洗礼名ドン・シメオンといった。(参考:『図説太閤記』毎日新聞社)

アルジャントゥーユのモネ

   1871年、ロンドンからオランダを経由して、ふたたびフランスに戻ってきたモネ一家は、アルジャントゥーユに家を借りて落ち着いた。パリから数㎞のセーヌ河畔のこの地での生活は、モネの生涯で実りの多い時期でもあった。

   印象派画家たちが最も結束を固めたのもこのころであり、1874年には第1回印象派展が開催された。モネの出品「印象、日の出」(1872年)を、見る者を驚かせあきれさせる絵の「印象」にひっかけて、新聞記事のタイトルには「印象主義者たちの展覧会」とつけられた。新聞記者ルイ・ルロアは「なんという気ままさ、なんという無造作!」と風刺のきつい『シャリバリ』紙上で酷評し、愚弄の意味の込めた「印象主義」という呼び名をつけたが、以後もモネたちに呼ばれるようになり「印象主義」の誕生となった。印象派展は1886年までさらに7回が開催された。モネは合計8回のうち5回に出品している。しかし、この展覧会は商業的には失敗であった。

   1880年代に入り、40歳になったモネはアリスや子どもたちとともに、ディエップ、プールヴィル、ヴァランジュヴィルといったノルマンディーの海岸地域を転々とするが、1883年に、やっとパリから60㎞離れたエプト河畔のジベルニーに腰をすえた。このころまでに、初期印象派グループはほぼ解散状態となっていたが、モネは印象派の理念である「自然の追求」をなおも試み続けていた。(参考:『モネ 週刊グレート・アーティスト3』同朋舎)

図書館はシュメールに始まる

   シュメール人は、所属系統不明の民族であるが、今日ではイラン高原を出身地とみる説が有力である。前4000年頃、ティグリス河中流域から河にそってくだり、シュメールの地に移住定着したシュメール人は、沼地を干拓し、灌漑農業の高生産性を利用して、最初の都市文明を築いた。楔形文字・神殿建築・円筒印章・羊毛衣料・十二進法などに特色が見られる。これらのシュメール文明は、次第に北部高地のアッカド地方や周辺諸地域に伝播し、ウル第一王朝を頂点としてメソポタミア全土に及んだ。ウル第三王朝の滅亡とともにシュメール文明は急速に衰えたが、バビロニア文明に基礎を与えた。

   メソポタミアにおける図書館成立過程の第一段階は、シュメール人によって実用的な文字の体系がはじめて出現し、発達したことが出発点となっている。現在、シュメール人が書いた文字の中で最も古いと見なされているのは、南メソポタミアのウルク市のエ・アンナ神殿で発見された絵文字である。前3100年頃(ウルク第Ⅳ層)シュメール文字が発明され、前2800年頃(ウルク第Ⅲ層、ジェムデッド・ナスル)まで用いられた。この絵文字から楔形文字が発達し、より多くの記録が残されるようになると、いつでも利用できるように、整理し、保存する必要が生じてくる。このような中から原図書館(Proto-library)が生まれたと考えられる。

2006年8月29日 (火)

日本的風土と和辻哲郎

   和辻哲郎(1889-1960)は、大正・昭和戦前期・戦後期と日本を代表する倫理学者である。ところが彼の代表作『風土(人間的考察)』はいまだ名著の誉れ高いが、学術書としてはかなり怪しげなシロモノである。勝ち組の知識人が辿った軌跡をみると、国策に便乗した学者の悲喜劇がみえてくる。

   ニーチェの研究と漱石の門下生ということで売り出した和辻は、日本回帰を図り、大正8年『古寺巡礼』、大正9年『日本古代文化』と相次いで著作を出し、学界に注目された。そして昭和元年『日本精神史研究』、昭和2年『原始仏教の実践哲学』などユニークな文化史的著作を次々刊行した。のちドイツへ留学、帰国後の昭和10年『風土』を著した。和辻は人間の歴史的・風土的特殊構造をモンスーン、砂漠、牧場と三つの類型に区分している。第一のモンスーンは日本であり、第二の砂漠はアラビア・アフリカ・蒙古であり、第三はヨーロッパである。これらの発想は、和辻がヨーロッパへ旅行したときの船旅の寄港地の印象と、ヨーロッパ内の旅行の印象をもとにしてできあがったものである。中尾佐助は「もしかれが華北の黄土地帯の果てしない小麦畑を旅行し、またシベリアの森林の中を何ヶ月も馬車で旅行していたら全く違ったものになっただろう」(「分類の論理」)と指摘している。当時、東大教授であった和辻は、有名なケッペンの気候区分も人文地理学も何も知らずに、彼の狭いヨーロッパ紀行漫録ともいうべき世界風土論や日本人論をでっちあげている。この面白い珍妙な体系には実は戦後の後日譚がある。というのは和辻の戦後の代表作である『倫理学』の戦後巻には、前記の三区分にプラスして「アメリカ的風土」と「ロシア的風土」がつけ加えられているからである。戦時中のかれの歴史観には、戦後世界の覇権者が米・ソである、という予感すらもない。こうして「君子は豹変する」の喩えどおり、日本の代表的知識人たちは変節して勝ち組になったのである。

2006年8月28日 (月)

北の大地に酪農を切り開く

    佐藤貢(1888-1999)の祖父は旧伊達藩士だったが、屯田兵として北海道に入植し、開拓と北辺の地の守り役に汗を流し続けた。札幌郊外白石村にある宇都宮牧場の経営者・宇都宮仙太郎、黒澤酉蔵(1885-1982)、佐藤善七(1874-1957)らが協力して、大正14年、北海道製酪販売組合を設立し、バターをつくった。

   佐藤貢は「米に頼らずにやっていく道はないか」と北大農業部を卒業後、米・オハイオ州立大学に留学。オハイオの工場ではバターやチーズ、アイスクリームの製造技術を学んだ。帰国後、札幌郊外に生まれたばかりの北海道製酪販売組合(雪印の前身)の技師に迎えられる。大正14年、牛乳を飲むのは病人と乳幼児だけという時代に、青年酪農技師はまずアイスクリームの製造を提案し、自ら製品開発に挑んだ。北の大地に乳製品は着々と根付いていった。

   佐藤貢は、昭和25年に誕生した雪印乳業の社長を13年間努め、その後も私立酪農学園大学(江別市)の学長、理事長などを歴任した。

2006年8月27日 (日)

『花ざかりの森』の頃の三島由紀夫

    昭和16年5月、学習院中等科五年生の平岡公威(16歳)は、国語教師の清水文雄に「花ざかりの森」の原稿を見せた。感銘を受けた清水は、自分も同人であった雑誌『文芸文化』の編集会議にかけ、全員の賛同を得て、「三島由紀夫」のペンネームで、同年9月号から4回にわたって連載した。この連載中の、昭和16年12月8日、大東亜戦争(敗戦後に太平洋戦争)が始まった。三島は、詩「大詔」を書き、開戦の詔勅が出た感動を言い、華々しい戦果を祝いながら、「むらぎものわれのこころ」は、「よろこびの声もえあげずただ涙すも」と記した。

   そのような状況下で、三島は、翌17年に学習院高等科へ進み、『文芸文化』に次々と短編小説を発表するとともに、学習院内の友人と雑誌氏『赤絵』を創刊、『輔仁会雑誌』にも編集委員として係わるなど、年少作家として活躍した。そして、蓮田善明の配慮と、『文芸文化』に係わりを持っていた富士正晴の奔走で「花ざかりの森」の刊行の話が進められた。しかし、戦争下、本の刊行はおそろしく困難で、容易ではなかった。そのうちに戦況は厳しさをまし、18年10月には、文科系学生の徴収猶予が取り消され、東京神宮外苑競技場で、学徒出陣壮行会が盛大に行われ、蓮田も二度目の召集を受けた。早生まれで多くの同級生より一歳下の三島も、翌年夏には入隊を覚悟しなくてはならない事態となった。しかし、そうなればなるほど彼は、小説執筆と歌舞伎見物に精を出した。

   昭和19年10月、学習院高等科を首席で繰り上げ卒業し、東大法学部に入学すると同時に、同級生のほとんどが入隊するのを見送った。それとともに『花ざかりの森』(七丈書院)がやっと出版された。新刊がほとんどない事情もあって、またたくまに売り切れた。そうして、紹介するひとがあって、『文芸』編集長の野田宇太郎の許に小説の原稿を持ち込み、その活動領域を広げようとした。そうした折りもおり、20年2月、召集を受けた。本籍地であった兵庫県印南郡志方村に赴いたが、出発前からひいていた風邪が悪化、高熱に苦しんでいたのを、軍医は肺浸潤と誤診、即日帰郷となった。彼が入るはずであった隊は、やがてフィリピンに送られ、ほとんど全滅したという。風邪と誤診という二重の事態がなければ、辿ったに違いない自分の運命について、のち、三島はしばしば思いを巡らすことになる。

   昭和20年5月、勤労動員で神奈川県海軍高座工廠の寮に入る。8月、高座工廠の寮で短編「岬にての物語」執筆。蓮田善明、マレー半島ジョホールバールで終戦四日目に自決。(参考:『新文芸読本・三島由紀夫』河出書房新社)

人に多くを求めるな

   人びとからは決してあまり多くのものを、あなた自身のために、期待してはならない。経験に照らしてみても、われわれが人びとからなにも求めなくなると、すぐさま彼らははるかに好ましい者になる。そして彼らは、このような利己心のない愛を実に本能的に感づくのがつねである。あなた自身のためには、ひたすら神の祝福に頼るがよい。どんな人間によっても満たされぬほど、要求のとくべつ多い心をさえ、神の祝福は完全に満たすことができるものだ。(ヒルティ『眠られぬ夜のために』)

2006年8月26日 (土)

川端康成と夢二式美人

  川端康成が若い日に竹久夢二を訪ねたが不在だった。

    「女の人が鏡の前に坐ってゐた。その姿が全く夢二氏の絵そのままなので、私は自分の眼を疑つた。やがて立ち上がって来て、玄関の障子につかまりながら見送つた。その立居振舞、一挙一投足が、夢二氏の絵から抜け出したとは、このことなので、私は不思議ともなんとも言葉を失つたほどだつた。(略)夢二氏が女の体に自分の絵を完全に描いたのである。芸術の勝利であろうが、またなにかへの敗北のやうにも感じられる。」(「末期の眼」より)

2006年8月25日 (金)

奥の細道・市振

一家に遊女も寝たり萩と月

    同じ宿に思いがけなく遊女も同宿して、一つ屋根のもとに寝ることになった。おりから萩の盛り、月の澄み渡った夜であった。西行と江口の遊女との故事も思い出され、思えばこれも狩の宿りであるこの人生での、あわれ深いめぐりあわせであった。

2006年8月24日 (木)

小学一年を落第した谷崎潤一郎

    谷崎潤一郎(1886-1965)は、明治19年7月24日、東京市日本橋区蠣殻町に生まれた。父・谷崎倉五郎、母関。明治24年に伯父・久兵衛の援助で父は米穀仲買人となり、店を出す。幼稚園がきわめて珍しかった時代に、両親から大切にされかわいがられていた潤一郎は、この年の秋に霊岸島の小岸幼稚園に通わされる。明治25年、坂本小学校に入学する。しかし乳母などの付添いなしにひとりで教室に入ることを嫌い、素晴らしい晴着を着た金持ちの坊ちゃんが式の日など講堂に入りたくないと大声で泣き叫び、あれは役者の子かなどと全校の評判になった。そのためもあり学校へほとんど行かず、二年進級の時、原級に差しとめになった。また一年生からやりなおしたのだ。まさに、過保護児童の典型であった。しかし、二度目の一年生のときは、担任は野川誾栄(ぎんえい)先生で、次第に劣等感から脱却して、学業もできるようになった。

    しかしそのころから、父の米相場師の事業は不振となり、谷崎家は没落し貧しい住居に転居する。幼い潤一郎にとっては理由のわからぬ屈辱と感じられたに違いない。(参考:『現代日本文学アルバム5 谷崎潤一郎』足立巻一ほか編)

漢代隷書体の特質

    漢代になると、秦以前の実用文字であった古隷の字体が整理されて、いわゆる漢隷とも称される隷書体が前漢・後漢を通じて標準書体として用いられるようになった。漢代の人々は書体を区別して使いわけ、書体のそれぞれの特有の美しさを認識するようになったのである。これは美的自覚がはっきりともたれたことを意味すると思われる。もう一つ、漢代における書道史上重要な点は、用筆法に関する事項である。篆書の時代の用筆法は、一般的には筆が書かれる材料の表面に対してほとんど垂直であった。この用筆法は前漢頃まで続くが隷書体の完成される後漢の時代になると、横画の幅が広くなることや、起筆の形などで筆は垂直から順次手前に傾斜してきたことがわかる。ただし隷書時代の筆の傾斜は手前方向だけで、西晋以後の時代に見られるように、右方にはまだほとんど傾斜していないと考えられる。この筆管の傾斜の問題は、筆線の表現力と密接な関係がある。このように筆が手前に傾いてきた隷書体では筆線の中に書者の心持ち(筆意)が表現されてくる。その理由は筆が傾斜すると細かい手の動きがあらわれやすいからである。(参考:「中国書道史事典」比田井南谷)

谷崎潤一郎の大震災後の足どり

   兵庫県芦屋市には市内伊勢町に谷崎潤一郎記念館がある。芦屋と谷崎との関係については大きく三つ点があげられる。

   まず第一は、谷崎の関西移住の第一歩をしるした地が、芦屋であったこと。第二は、実際に谷崎は昭和9年から昭和11年まで芦屋に居住したこと。その住居は現在も詩人・富田砕花旧居(芦屋市宮川町)して一般公開されている。第三は、谷崎の代表作の一つである『細雪』の主要な舞台が芦屋であったこと。

    第一の点については、あまり知られていない事実であるので、関東大震災後の谷崎の足どりについて調べてみよう。谷崎が、はじめて芦屋を訪ねたのは、大正12年9月5日の朝、芦屋市松の内町56番地の伊藤甲子之助宅に避難してきたときとされている。大正12年9月1日午前11時58分、谷崎は箱根の芦ノ湖畔のホテルを出発してバス車中にあって地震に遭い、山が動き、道が裂けるのを見て、すっかり地震の恐怖にとりつかれてしまった。この恐怖が後に彼の関西移住を決意させた。伊藤甲子之助は、旧姓は脇田といい、谷崎とは小学校時代の親友である。谷崎が伊藤宅を出て京都上京区等持院の京都の家に落ち着いたのは9月27日であった。10月9日に横浜の家族を訪ね、11日に東京の家族宅や親戚、知人宅等を泊まり歩いている。10月24日家族同伴で東京から上海丸で帰神、直ちに伊藤家にもどっている。11月には、京都市左京区の要法寺に移るが、12月には、兵庫県武庫郡六甲苦楽園に転居する。これから阪神間の生活が昭和20年に岡山県津山市へ疎開するまで続くのである。

マレー沖海戦

   昭和16年12月、マレー半島東方沖において、上陸部隊を支援する南遣艦隊司令長官・小沢治三郎中将は、悪天候のため英艦隊を発見できず、航空隊にすべてをかけた。第1航空部隊は、戦艦プリンス・オブ・ウェールズ、巡洋戦艦レパルスを発見し、集中攻撃により、あっけなく沈めてしまった。航空機が航行中で戦闘態勢にある戦艦を沈めた、という戦史上かつてない戦果を達成したマレー沖海戦の結果は、真珠湾に続いて全世界の海軍関係者に大きなショックを与えた。とくにチャーチル首相は、「これまでにない大きな衝撃を受けた」とその回顧録に書き残している。以後、戦艦は航空機に海戦の主役の座を明け渡すことになったのである。

切れたナイロンザイル

    井上靖の小説『氷壁』の題材となったのは「切れたナイロンザイルの謎」である。石岡繁雄(1918-2006)は、弟を昭和30年1月、北アルプスで失った(いわゆるナイロンザイル切断事件)。麻ザイルに勝ると言われていたナイロンザイルの強度に疑問を抱いたが、専門家メーカー側は欠陥を認めなかった。だが石岡は独自の実験を重ねて当時のナイロンザイルは岩角で切れやすいことを実証した。21年かかって真実が認められたが、その間、ナイロンザイルの切断事故で20人近くが死んでいる。

   石岡繁雄は、旧制八高山岳部時代より穂高岳などでの登山活動を始める。戦後旧制三重県立神戸中学校教諭となり、山岳部を創設、そのOB会を中心として岩稜会を設立。明神岳を始めとして穂高岳の岩壁を登り、その成果を『穂高の岩場』上・下巻として発表した。また穂高岳屏風岩の開拓に取り組み、昭和22年7月、同壁中央カンテの初登攀に成功する。『屏風岩登攀記』がある。

2006年8月22日 (火)

漱石と鴎外の女性観

   小宮豊隆は『漱石と恋愛』で、夏目漱石ほど「恋愛を通して自分自身を高めていった人は、恐らく外にあまり類がない」と書いている。描かれる女性も愛をめぐって一様ではなく、きわめて魅力的に変幻するのである。ことに当時の自然主義文学に較べて自我と個性を持ち、一貫して人間的に存在を主張している点に、漱石の女性観がうかがわれる。

    森鴎外も明治42年1月、「スバル」創刊号に戯曲『プルムウラ』を発表し、以後、女性が主人公になる戯曲を次々に書いている。大正7年に「婦人、母、子どもの権利を守る」ために新婦人協会が結成された際には助言している。趣意書から規約まで丹念に読んで朱筆までし、鴎外の女性解放運動へのきめの細かな助言について平塚らいてうが述べている。近年の研究によると、鴎外の婦人解放への関心は、ドイツ留学時代の体験にもとづいているらしい。 夏目漱石は弟子たちの文筆活動によって、かなり人格者のイメージが形成されてしまったが、実像はかなり頑固で偏狭な性格であったようだ。近年再評価が高まる京都画壇の日本画家、木島櫻谷への酷評などその一例であろう。

2006年8月21日 (月)

夏目漱石の学生時代

    夏目漱石は尾崎紅葉、幸田露伴、正岡子規等と同い年である。しかし文壇的出発はだれよりもずっと遅い。彼の文名が高くなったころには紅葉も子規もすでにこの世にはいなかった。これは、彼の学生時代が長かったことと、大学卒業後主として地方教師生活を長く続けていたためによる。もちろん、そのために知識経験が蓄積され、作家生活にはいってから優れた作品が堰を切って押し出され、停滞するところがなかった。

では長い漱石の学生時代を調べてみよう。

  漱石は、明治16年(16歳)9月、大学予備門受験のため、神田駿河台の成立学舎に入学。好きな漢籍を売って、英語を勉強した。同級に橋本左五郎、太田達人、中川小十郎、佐藤友熊らがいた。

    明治17年(17歳)9月、大学予備門予科入学。同級に中村是公、芳賀矢一、橋本左五郎がいた。だが、漱石は何をもって世に立つべきか容易に決心できなかったらしい。「漢籍や小説など読んで文学といふものを面白く感じ、自分もやって見ようといふ気がした」が、次兄の直則に「文学は職業にやならない」とさとされ、その志望を諦めたとは、漱石自身の語った有名な挿話である。高等学校時代(明治19年に大学予備門が第一高等中学校と改称された)、建築家になりたいと思った。ところが、友人の米山保三郎に「日本でどんな腕を揮つたつて、セント・ポールの大寺院のやうな建築を天下後世に残すことは出来ないぢやないか」といわれ、いよいよ文学者になる決心をした。が、そのころになると、もう「漢文科や国文科の方はやりたくなかった」。で、英文科を志望したのだという。明治21年(22歳)1月、同級生に正岡子規と知り合う。この交遊は漱石の作家生活に大きな影響を与える。

    明治23年(23歳)、9月、帝国大学文科大学英文科に入学。文部省貸費生となった。明治26年(26歳)1月、帝国大学文学講話会で「英国詩人の天地山川に対する観念」を講演。外山正一らに注目され、3月から6月まで「哲学雑誌」に発表。7月、文科大学英文科第2回卒業。ただ一人の卒業生であった。英語きらいのはずの漱石は、たちまちディクソン教授を驚かすほどの語学力を発揮し、成績はずばぬけて優秀で、特待生となった。正岡子規は、国文科に席をおき、漱石に俳句熱を吹きこんだが、二年の試験に落第して大学をやめ、文筆生活にはいった。

    大学を卒業し、大学院に入り、英文学をさらに深く究めようと思った。学力が優秀であったから諸所から就職の口がかかり、嘉納治五郎に口説かれて、年俸450円で高等師範学校の英語教師を嘱託された。学生時代からの東京専門学校の方にも出講していた。

   しかし漱石はいくら研究しても、文学はわからず、自分は未熟低劣で、「是でも学士か」と、内心忸怩たるものがあった。そのうえ、翌年2月に血痰を出し、医師に肺結核の初期と診断されて専心療養につとめ、弓道を習った。二人の兄を結核で失っていたから、神経質にならざるを得なかった。「虚空につるし上げられたる人間」のような思いで、シェリー詩集1巻と松島や湘南に漂泊し、あるいは大学の寄宿舎を出て、小石川の法蔵院に下宿した。尼寺の尼僧の振舞に腹を立て、親友菅虎雄の紹介で鎌倉の円覚寺を訪ね、釈宗演から「父母未生以前の本来の面目如何」の考案の前にぐぁんと参った。帰源院に参禅し、宗活を知ったが、結局、参禅は失敗に終わった。しかし自力で解脱の道を行こうとする禅宗は漱石の心にかなったものであったから、参禅に失敗しても、「心の実質を太くする」ことを学び、漱石の思想の立退き場所のような影響を及ぼしていた。

2006年8月19日 (土)

夏目漱石のイギリス留学

   明治33年9月、夏目漱石(33歳)は英語研究のため、文部省留学生となって、イギリス留学を命ぜられた。ドイツ船プロイセン号で横浜を出帆し、パリを経て、10月ロンドンに到着した。

   留学費は年1800円だった。これで、ケンブリッジなどの名門大学へはいり、本を買うことはできない。大学入学をあきらめ、ロンドンの下宿で本を読む方針にした。もっとも、シェークスピア研究家クレイグの個人教授を受ける一方、ユニバシティー=カレッジでカー教授の講義をきいたけれども、大学聴講は面白くなく、一月でやめてしまった。

   いったいに、漱石のロンドン生活はゆううつだった。「狼群に伍する一匹のむく犬のごとく、あわれな生活」を味わい、英国ぎらいになった。漱石は、ロンドンに来て、イギリスの学者の専門外のことについての無知を知り、彼らに対するかいかぶりを悟った。化学者の池田菊苗と同居して、いろいろと啓発された。こうして生活を極端にきりつめ、時にはパンと水だけでがまんをして、本を買い、発狂とうわさをたてられるまでに、学問にうちこんで、神経をいためた。

   正岡子規の死の報をきいた年の暮れにロンドンをたって、明治36年1月、東京に帰った。東大ではラフカディオ・ハーンの後任となり、シェークスピアの評釈のほか、『文学論』や『十八世紀英文学』(後の『文学評論』)を講じ、独創的な文学論の体系、みごとな英文学史論だった。しかもこの講義に心魂をうちこみ、神経衰弱を昂じさせたほどだった。

和辻哲郎と夏目漱石とニーチェ

   和辻哲郎(1889-1960)は、大正2年、最初の著書『ニーチェ研究』を刊行、その直前に夏目漱石に手紙を書き送ったが、その夜偶然に帝国劇場で漱石にあう。漱石よりあたたかい返事をもらい、漱石山房を訪れる。

   その後、和辻は、古代日本に「ディオニュソス的なもの」を見いだして美的な日本回帰を遂げ、『古寺巡礼』(大正8年)によって古代ブームを巻き起こした。大正14年には京都帝国大学に就職し、昭和2年にはヨーロッパに留学して、その際の船旅の途上における直感的な観察は、その後『風土』(昭和10年)として結実した。また、近代ヨーロッパの自己完結的な倫理学を構想して、『人間の学としての倫理学』(昭和9年)以降の著作で展開したが、それは彼が嫌がっていた「国民道徳」や京都学派の「世界史的立場」ないしは「近代の超克」の論理にも通ずる滅私奉公的倫理観も準備するものであった。

   和辻は昭和9年に東京帝国大学倫理学科教授となり、『倫理学』(昭和12年-24年)では、ヘーゲルの体系を模索した構成の中で「自我」の滅却による和の倫理を家族国家観と接合させた。ここでも『ニーチェ研究』における意識的な「自我」の克服による宇宙的な「自己」への解脱という図式は見事に一貫している。戦後、『倫理学』を改訂して国家を超える国際法の次元を取り入れることで国家主義を是正する方途を探り、『鎖国』(昭和25年)で近世の日本の閉鎖性を批判した。

「赤い鳥」という童話と童謡の文学運動

    児童文芸雑誌「赤い鳥」は、大正7年7月から昭和11年10月まで刊行された。(昭和4年3月から昭和5年12月は休刊)。通巻196冊。鈴木三重吉は「功利とセンセイショナルな刺戟と変な哀傷とに充ちた下品なものだらけである」子どもの読物の現状を憂い、「子供の純性を保全開発するために、現代第一流の芸術家の真摯なる努力を集め、兼て、若き子供のための創作家の出現を迎ふる、一大区劃的運動の先駆」たらんと期している。そしてまた「貧弱低劣なる子供の謡と音楽とを排除して」「芸術的な謡と音楽」を作ることと「少しも虚飾のない、真の意味で無邪気な純朴な」子どもの作文の養成をも唱えている。

    この運動に賛同した作家は次のとおり。

泉鏡花、小山内薫、徳田秋声、高浜虚子、野上豊一郎、野上弥生子、小宮豊隆、有島生馬、芥川龍之介、北原白秋、島崎藤村、森林太郎、森田草平、鈴木三重吉その他十数名。一年後には、以上の作家のほかに、小川未明、谷崎潤一郎、久米正雄、久保田万太郎、松居松葉、江口渙、有島武郎、秋田雨雀、青木健作、西条八十、佐藤春夫、菊池寛、三木露風、山田耕筰、成田為三、近衛秀麿を加えている。このほか、秋庭俊彦、伊藤貴麿、井伏鱒二、内田百閒、宇野浩二、宇野千代、大木篤夫(惇夫)、片山広子、加藤武雄、加能作次郎、上司小剣、木下杢太郎、楠山正雄、小島政二郎、下村千秋、相馬泰三、塚原健二郎、豊島与志雄、長田秀雄、中村星湖、南部修太郎、福永渙、林芙美子、広津和郎、細田源吉、細田民樹、水木京太、室生犀星、宮原晃一郎、吉田絃二郎らがいる。童謡では白秋、八十のほか、三木露風、柳沢健など。また、坪田譲治、新美南吉、平塚武二、小野浩、木内高音、森三郎らは鈴木三重吉の指導により童話作家として現れ、白秋の門からは、与田準一、巽聖歌、佐藤義美、小林純一、柴野民三らが出ている。挿絵は、清水良雄を中心に、鈴木淳、深沢省三、小笠原寛三、川上四郎、武井武雄、島田訥郎、寺内万次郎、前島とも子ら狭い範囲の人に限られていた。

代表的な作品をあげる。

 

「蜘蛛の糸」芥川龍之介

 

「杜子春」芥川龍之介

 

「魔術」芥川龍之介

 

「一房の葡萄」有島武雄

 

「蕗の下の神様」宇野浩二

 

「月夜と眼鏡」小川未明

 

「小川の葦」坪田譲治

 

「ごん狐」新美南吉

 

「大熊中熊小熊」佐藤春夫

 

「一郎次、二郎次、三郎次」菊池寛

 

「唐傘」徳田秋声

 

「マツチ売の娘」小宮豊隆

 

「王様になった狐」広津和郎

 

「ないてほめられた話」有島生馬

 

「ねこを殺した話」野上豊一郎

 

「どろぼう」久米正雄

 

「ふえ」小島政二郎

 

「少年と海」加能作次郎

 

「白鳥の国」秋田雨雀

 

「さびしき魚」室生犀星

2006年8月18日 (金)

芥川龍之介と大阪毎日新聞社

  芥川龍之介(1892-1927)は大正4年に「羅生門」、翌年に「鼻」と名作を次々と発表したが、生活は苦しかった。大学卒業後、海軍機関学校の英語教師となる。大正6年に「戯作三昧」(10月20日から11月4日)を大阪毎日新聞に発表する。大正7年2月に生活の安定を得るために大阪毎日新聞の社友契約を結ぶ。龍之介が出した条件は、一、雑誌に小説を発表する事は自由の事 一、新聞へは大毎(東日)外一切執筆しないこと 一、報酬月額50円 一、小説の原稿料は従来通り など5項目よりなるものである。大阪毎日新聞に「地獄変」(大正7年5月1日から22日)を連載した。大正8年3月、大阪毎日新聞の社員となり定収入の保証を得ることとなった。出勤する義務は負わない。年に何回かの小説を書くこと、他の新聞には執筆しない、という条件で、月給130円と別に原稿料を受け取ることになる。

   大正10年9月に大阪毎日新聞社海外視察員として中国へ派遣されることになった。19日に東京を出発したが、車中で発熱して大阪で下車、27日に大阪を発って西下したが下関で再び発熱し、28日門司発の筑後丸で上海へ向かった。ところが、上海到着の翌日から乾性肋膜炎をおこして約三週間里見病院へ入院した。退職後、大阪毎日新聞記者の村田攷郎や島津四十起、学生時代からの友人ジョーンズ、西村貞吉などの案内で、観劇や市内観光をしている。帰国後も、中国旅行の無理がたたって病床に伏すことが多くなった。「神経衰弱の最も甚しかりしは大正10年の年末なり」(病中雑記)という。

2006年8月16日 (水)

「赤い鳥」をつくった鈴木三重吉

   鈴木三重吉(1882-1936)は、9歳のとき母を失い、祖母に育てられた。生来、神経質であったが、東大在学中に強度の神経衰弱で休学している。わが国児童文学の母胎ともいうべき「赤い鳥」という雑誌の主宰者である鈴木三重吉とはいかなる人か。今日残された証言をあつめ、三重吉の実像に迫りたい。

1,坪田譲治の証言その1

    坪田譲治は、昭和33年発行の『赤い鳥代表作集』(小峰書店)で次のような「まえがき」を書いている。「赤い鳥という雑誌は大正7年7月に創刊され、昭和11年8月までつづきました。尤もその間に1年9ヵ月の休刊がありました。然しその17ヵ年の間に195冊の実に立派なわが国児童文学の光ともいえるような雑誌が出ております。これこそ、わが鈴木先生が37歳の時から55歳で亡くなられるまで、その半生をかけてこられた大事業だったのであります。亡くなられる数日前まで、赤い鳥のために病躯をかって、あえぎあえぎ原稿を書かれたことを見ても、その児童文学のためにどんなに熱情をもたれていたということが思われます」

2.坪田譲治の証言その2

    坪田譲治は、昭和9年の元日、紋付羽織、それに袴まではいて、鈴木三重吉邸へ年賀に伺った時のことである。三重吉は、「それで毎号よく直してさし上げてるんだが、どうですかね」と言われた。お正月ではあるし、つい心をゆるめて、「はい、御厄介になりまして。然し先生に直していただくと、文章はとても立派になるのですが、私のねらいどころは、どういいますか、もっと素朴なところを思って居りまして」今、二人の作品を読み比べると、これは文学思考の違いからくる当然の意見なのだが、これで大変なことになった。「ようし、そんなことを言うなら、これから坪田譲治論をして聞かせる」という次第で、さんざんな目にあい、居たたまれず辞去した。門までは10間もあるのに、そこを歩いているうちに涙がこみあげてくるのを押さえきれなかった。時に譲治44歳の新春である。翌日、譲治は書初めの短冊に、「吾れは窮鼠なり、文学の猫を噛まん」と書いた。文学の上でも生活の上でも、追いつめられた鼠のように、譲治にとっては一番苦しい時であった。そういう中でたまたま、三重吉の一喝が、逆に励みになって、書き初めにこういう文学に燃える不退転の決意が表白されたのである。

3.丹野てい子の証言

    先生は、文章は、非常にやかましかった。同じ意味でも、言いまわし方が、先生とおなじ言葉づかいでないと、気に入らない。文字も、「おわりました」を、「了りました」ではいけない。「まったく」を「全く」、「ながら」を「乍ら」でもいけない。これに類することは、その他数々ある。機嫌のわるい時に、下手なものを書いておめにかけると、大へんだ。「こんなことが、わからないのか」といって、じつに、大へんな見幕である。真赤になって、怒るどころではなく、まっ黒になって、そこらを、烏天狗が飛び廻っているような工合である。ある時、あまり叱られて、情けなくなって、隣室へ行って箪笥の前で、泣いていたら、夫人のおくさんがこられて、箪笥のひきだしをあけながら、「誰でもああいうように、叱られるんですよ。仕方がないんですよ。私だって、いつも叱られるんですよ」と慰められた。夫人が、私に話しかれたのは、あとにも、さきにも、このときだけのような気がする。私も、夫人に、話かけることもしなかったが、お互に反目しているわけでは勿論なかった。夫人も私も、他人につとめるということを知らない、世間しらずであったろう。そして、つべこべ、夫人に、お世辞をいわないですんだ。鈴木家は、今考えると、いい家庭だったとおもう。(「赤い鳥」と私  野町てい子)

4.小島政二郎の証言その1

   私は「睨み合」という作品を持って三重吉のところへ見せに行ったところ、彼の点の辛いのに私は目を白黒させた。彼は全体のよし悪については一言も言ってくれず、一行一行、一節一節について微に入り細を極めた批評(といよりも指導を)いや、実に意地の悪いアラ探しをして聞かせた。(中略)それは弟子や後輩に対する態度ではなかった。競争相手に対するような冷酷なところがあった。人でも変わったかと思われ、思わず彼の顔を見ないではいられなかった。私は「睨み合」で、完膚なきまでにやっつけられた。三重吉の言うところをそのままに受け取れば、私には一つもいいところがなかった。

5.小島政二郎の証言その2

    私の知っている範囲では、三重吉は人間を駄目にし、いい天分を持っている人をも枯らしてしまう藪枯らしのような性格を持った不思議な人物だった。もっとも、この前後から、彼自身が枯れて行きつつあったのだ。酒ばかり飲んでいて、勉強を一切せず、持っていたものを出し尽くしてしまえぱ、枯渇するのは当たり前だ。「中央公論」に書いた「八の馬鹿」を最後に、彼は書けなくなった。

6.小島政二郎の証言その3

    三重吉は一つのことを思い込むと、気違いのようになってすさまじい情熱を燃やす。そういう時の彼を見ていると、天才かと思う。が、彼の情熱は長く続かなかった。「赤い鳥」に対する情熱も、この山田耕筰指導の音楽会までで、それを頂点にしてあとは惰性に安んじるようになった。とにかく雑誌を出しさえすれば、毎月きまって生活費の心配はなく、その上振替にはしじゅう金がはいって来るし、生まれて初めて小切手を切るほど銀行に貯金も出来た。(中略)三重吉は、前にも言ったように、不思議に相手の運命をメチャメチャに狂わしてしまう台風の目のようなものを持っていた。お藤さんもその犠牲者だったし、彼の自ら言うところに従うと、「小鳥の巣」は半分以上自叙伝だという。もしそうなら、あれに登場する万千子も、彼の犠牲者だ。彼の弟などは、その最も甚だしい犠牲者の一人だった。三重吉はいざとなると、冷酷無慙になれるエゴイストだった。彼は、愛する者を幸福に出来ず、あべこべに不幸のドン底へ突き落とす異常な性格を持っていた。その第何番目かの犠牲者が楽子だった。

2006年8月14日 (月)

坪田譲治と毛利宮彦との奇縁

    アメリカでの図書館学留学を終えて帰国した毛利宮彦が、早稲田大学図書館に辞表を提出したのは、大正6年10月3日、宮彦31歳のことだった。時期を同じくして、童話作家で知られる坪田譲治(1890-1982)は、早稲田大学図書館に勤めるようになった。譲治27歳のことである。

   坪田譲治は、明治41年、早稲田大学英文科1年に進級し、坪内雄蔵、金子馬治、島村滝太郎、五十嵐力、吉江喬松、片上伸、長谷川天渓らの講義を聴く。同級生には、細田民樹、保高徳蔵、鷲尾雨江、西条八十、細田源吉、青野季吉、直木三十五、生田蝶介、国枝史郎、嶋中雄策、広津和郎、谷崎精二らがおり、いずれも大正時代の近代文学を背負って立った人物がこの学窓で育てられていった。坪田は大正4年に前田浪子と結婚し、その翌年10月に早稲田大学図書館に勤めた。その頃、次第に童話創作へと傾いていった坪田にとって、図書館の仕事は単調な仕事の連続でおもしくろないものであった。大正7年3月には図書館をやめることになった。

   毛利宮彦は図書館学専門の司書であり、坪田譲治にはほとんど図書館の知識はなかったものと推測されるので、たまたま時期が前後しただけで、坪田が毛利の後任であるとは考えにくいが、著名人が人生の岐路に交錯することは奇縁といえよう。

   戦後のまもない昭和21年に毛利宮彦は「大泉文庫」を開設している。児童文学者の第一人者となった坪田譲治も、昭和36年に「びわのみ文庫」を雑司ヶ谷の自宅に開設している。はたして大正6年10月頃、毛利と坪田の二人が面識があったのか、なかったのか。文庫開設した二人は青年期の図書館勤務の経験が晩年によみがえったのだろうか。疑問は果てしない。

田中王堂と石橋湛山

    田中王堂(1867-1932)。明治22年渡米し、神学校、ケンタッキー大学、ついでシカゴ大で学ぶ。8ヵ年にわたる留学中にJ・デューイの思想を学び、日本における最初のプラグマティズムの紹介者となる。その思想はプラグマティズムを受け入れるも、傍ら象徴主義の色彩の濃いもので「王堂哲学」とよばれる独自なものである。

    明治30年代半ば、早稲田大学文学部哲学科には、島村抱月、金子馬治、安倍磯雄教授らのほかに、田中王堂がいた。若き石橋湛山が最も傾倒した人は、田中王堂だった。石橋は後に「もし今日の私の物の考え方に、なにがしかの特徴があるとすれば、主としてそれは王堂哲学の賜物であるといって過言ではない」と語っている。埼玉県所沢市近郊にある田中王堂の墓碑には、石橋の筆になる「徹底せる個人主義、自由思想家として最も夙く最も強く、正しき意味に於て日本主義を高唱し、我国独自の文化の宣揚と完成とに一生を捧げたる哲学者田中王堂此処に眠る」との碑銘が刻まれている。

 田中は明治40年代前後の自然主義文学勃興期に、「明星」誌上などで島村抱月や岩野泡鳴ら自然主義文学者たちに深刻なる哲学的批判を加え、また、夏目漱石の「文学論」についての長文の批判を含む著作「書斎より街頭に」(明治44年)の発表によって論壇の注目を浴びるにいたった。彼は、大正・昭和期を通し、ドイツ観念論哲学全盛の当時にあって、英米系経験哲学を身に体した哲学者として、かつまた、日本の精神的土壌からも深く学んだ特異な自由思想家として活動していったのである。

2006年8月12日 (土)

藤木九三とロックガーデン

    藤木九三(ふじきくぞう、1887-1970)。京都福知山生まれ。早大英文科中退。東京日日、やまと新聞を経て朝日新聞に入社。

    阪急電鉄神戸線が開通まもない大正末期ごろ、若い新聞記者・藤木は芦屋川駅付近の車窓から見える六甲山の岩肌を見て興味を覚えた。その後、彼はこの岩場で、岩登りの練習を重ね、わが国初のロッククライミングRCCを創設した。1926年1月のことである。そしてこの岩場を「ロックガーデン」と命名した。

    現在、芦屋川上流のコース入り口の高座の滝の左壁には、藤木の顔のレリーフがある。毎年、藤木の誕生日(9月30日)に近い日曜日には藤木祭が開かれている。

                                  *

   登山家藤木の登山歴を概述する。1916年夏、東久邇宮の槍ヶ岳登山に同行報道する。19924年1月、有峰から上ノ岳積雪期登山。6月上旬、槍平小屋から残雪の南岳、奥穂縦走。1925年8月、早大隊と前後して北穂高滝谷を登攀した。1926年、ヨーロッパに遊びモン・ブラン、フィンシュターアールホーン、マッターホルン、モンテ・ローザなどに登り、秩父宮のお供をした。1934年12月、京大の厳冬期白頭山登山隊に報道部員として参加し、極地法登山について広く一般に紹介した。1936年12月には四国石鎚山冬期登山を記録した。

    著書は『屋上登攀者』『槍・穂高・岩登り』『雪・岩・アルプス』『雪線散歩』『雪表縦走』など多数ある。新田次郎『孤高の人』では、主人公のよき理解者で関西登山界の大立者の藤沢久造として登場する。また甲子園球場の「アルプススタンド」の名付け親でもある。

リュシエンヌ・ドリール「ルナ・ロッサ」

    リュシエンヌ・ドリール(1917-1962)。戦後のシャンソンブームで、人気のあった女性歌手といえば、イベット・ジロー、ジュリエット・グレコ、そしてリュシエンヌ・ドリールあたりでしょうか。

   リュシエンヌ・ドリールは、本名をリュシエンヌ・トランキュといい、1917年にパリで生まれた。父はガラス工だったが、幼いころに両親を亡くし、彼女は叔母の手で育てられた。歌い手になったのは、1937年のことである。場末の踊り場でうたったり、テアトル・ド・ベルヴィル(ベルヴィル劇場)という下町の小屋に出演したりした。

   やがて、戦争直前の1939年、ラジオ・シテが主催する「若者たちのミュージック・ホール」というコンテスト番組に応募した彼女は、「外人部隊の旗」(マリ・デュバやエディット・ピアフの持ち歌として名高いシャンソン・レアリスト)をうたって、第2位を獲得した。

    1940年パラマウントと契約したドリールは、ここで「外人部隊の歌」「若者は歌う」の2曲を歌った。1942年、ドリールの最初のヒット曲「私の恋人」(原題は「サン・ジャンの私の恋人」)が生まれた。ようやく彼女はスターとして認められ、「ABC」や「ウーロペアン」など、一流のミュージック・ホールに出演した。1944年、エーメ・バレと結婚した。やがて、彼女はヨーロッパ諸国を巡演し、さらにリオ・デ・ジャネイロで大成功を収めた。1946年には、「私を抱いて」が大ヒットし、1947年度のACCディスク大賞を受賞し、名声を確立した。それから数年間が、彼女にとって幸せな時期だった。1952年の「ルナ・ロッサ」、1953年の「恋はせつなく」は日本でもヒットした。

    しかし、幸せは続かず、1957年には白血病で倒れた。1960年11月、小康を得て、彼女はレコーディングを行い、ボビノ座に出演した。しかし、公演なかばで、ふたたび倒れる。それが最後の舞台だった。1962年4月10日の夕暮れ、モンテ・カルロの病院で、ドリールは夫と娘に見守られながら、静かに息を引きとった。

                      *

  サン・ジャンの私の恋人

なぜだか分からないが、私は、

サン・ジャンの日に、踊りに行った。

そして、ただ一度の接吻で、

私の心はとりこになった。

どうしたら正気でいられるというの

大膽な腕に抱きしめられても。

いつだって信じてしまうのよ、

甘い愛の言葉を、

目で語りかけられれば、

私はとても彼を愛した、

彼を、

サン・ジャンの日の一番の美男子と思った。

すっかりうっとりして、

意思の力も失ってしまった、

彼にキスされながら。

その時からもう、考えもなく、私は彼に、

一番いいものを上げてしまった。

口のうまい人、彼がうそをつく度に、

私はそれを見抜いた、でも愛していた。

他の日と同じように、サン・ジャンの日も

誓いの言葉は、只の誘いのわなだった。

私は自分の幸福を信じようと

彼の心をつなぎ止めようと必死になった。

どうしたら正気でいられるというの、

大膽な腕に抱きしめられても。

いつだって信じてしまうのよ、

甘い愛の言葉を、

目で語りかけられれば。

私はとても彼を愛した、

私の美しい恋人を

サン・ジャンの日の私の恋人を。

彼はもう私を愛してはいない。

もう過ぎたことだ。

だから、この話は止めにしよう。

    (橋本千恵子訳詩)

2006年8月11日 (金)

出羽三山

   出羽三山というのは、羽黒山、月山、湯殿山の三つの山をいう。この三山は古くから修験道の地としてその名を知られている。芭蕉と曽良は羽黒山に登って、図司左吉の案内でここの別当代の会覚阿闍梨(えがくあじゃり)という人にお目にかかった。二人は阿闍梨に、南谷の別院で、心のこもった歓待をうけた。

有難や雪をかをらす南谷

(まだ残雪のある南谷に、薫風が南から吹き渡って、雪の香をかおらせる。有難いことである。)

涼しさやほの三日月の羽黒山

(仄かな三日月に照らし出された羽黒山の姿を、南谷の坊から見ていると、如何にも涼しい感じである。)

雲の峰幾つ崩れて月の山

(月山が月の光にくまなく照らされて、眼前に雄偉な山容を現している。昼間立っていたあの雲の峰が、いくつ崩れて、現われ出た月のお山であるか。)

語られぬ湯殿にぬらす袂かな

(湯殿山の神秘は人に語ることを禁じられている。その語られぬ感動を胸に籠めて、ひそかに感涙に袂を濡らすことであるよ。)

湯殿山銭ふむ道の泪かな

(湯殿山に詣でる人の賽銭が道々に散らばり、それを踏みながらお宮に詣で、感涙にむせぶことよ。)

    なぜ湯殿山の見聞を他言することを禁じたのか。おそらく、この山が生殖器崇拝の土俗に基づいたためではないかと思う。

2006年8月10日 (木)

鯨の生態

   鯨は全生涯を水中で生活する唯一の哺乳類であり、現存する動物では最大のものである。鯨は、鯨油や食用としてほとんど無駄なく利用でき、昔から海の資源として重視されてきたが、繁殖力が低いので、近年、欧米を中心に鯨の保護運動が盛んとなり、商業捕鯨の管理のための方策が、国際捕鯨委員会で取り決められている。シロナガスクジラ、マッコウクジラなどの大型鯨13種が管理対象になっている。

   鯨は歯のあるハクジラと歯のないヒゲクジラに分類され、ハクジラの小型の種類がイルカである。ハクジラには、マッコウクジラ、ツチクジラ、シオゴンドウ、アカボウクジラなどがあり、ヒゲクジラには、シロナガスクジラ、ナガスクジラ、イワシクジラ、ホッキョククジラ、ザトウクジラなどがある。

 鯨類は一海域に定着することは少なく、つねに餌を追って回遊しているが、小型種になるほど回遊の範囲は狭くなり、特定の海域に定住して分布域を形成するものもある。またイルカ類では暖海性の種が多く、寒海性の種は少ない。ヒゲクジラ類では、暖海で交尾し、寒海に餌を求めて、南北に広く回遊する。クジラの寿命は、大形の種類ほど寿命が長く、シロナガスクジラで約100歳、マッコウクジラで約70歳と思われる個体もある。 (参考:「鯨を追って」大村秀雄 岩波新書)

竹久夢二の詩歌

   大正元年6月、雑誌「少女」に夢二は、さみせんぐさの筆名で「宵待草」を発表。全8行の詩形であった。この詩は翌大正2年11月発行の『どんたく』(実業之日本社)に収録された。

    宵待草

 まてどくらせど こぬひとを

 宵待草の やるせなさ。

 こよひは 月もでぬさうな。

   三行詩という短い形式はおそらく石川啄木の影響であろうか。いつまでたっても男は来ないので、もどかしいやら、せつないやらで、いつしか自分の身の上を月見草の別名を持つ「オオマツヨイグサ」(宵待草は夢二の造語)にたとえて嘆いている。

   この詩にバイオニストの多忠亮(おおたただすけ 1895-1930)が曲をつけた。大正7年9月に楽譜「宵待草」(セノオ楽譜)が出版されるや、またたくまに全国に流布し、人々の愛唱歌となった。

   夢二は画家であるが、詩画集を50冊以上も出しているので、多数の詩歌が残されている。

ありし日の少女(おとめ)のごときはぢらひを

眼に見する子よ何を思へる

       *

許せ子よ昨日と今日をひとつ身に

まして女の耐ふることかは

       *

かなしきときは 悲しむこそよけれ。

うれしきときは 喜ぶこそよけれ。

わかき日のために。

     *

        けふ

きのふのための悲しみか

あすの日ゆゑの佗しさか

きのふもあすもおもはぬに

この寂しさはなにならむ。

聞かせてよ、愛の言葉を

   リュシエンヌ・ボワイエ(1903-1983)は、本名をエミリエンヌ・アンリエット・ボワイエといい、パリのモンパルナスで生まれました。第1次世界大戦で父が戦死してから、生活が苦しくなり工場で働きながら、画家のモデルをしていましたが、1918年のある日、アテネ座のタイピスト募集の広告を見て応募し、採用されましたが、タイプの打ち方などはもとより、知る筈もありません。ただ歌と踊りが大好きで、ステージにあこがれていたのです。支配人にそのことを話すと、幸い彼の同情を得て、彼女は生まれてはじめて舞台に立たせてもらいました。エーメ・サミュエルという話し方の先生が彼女に歌の素質があることを見抜き、歌手への道をすすめました。そして16歳のとき、サン・ドニの小さなミュージック・ホール「コンコルディア」でデビューしました。その後、アメリカからやって来たリー・シューバートという興行師が彼女に目をつけ、ブロードウェイへ連れて行きました。帰国後、レコードを吹き込んだのが「私が愛してるかと聞いているのね」という曲で1928年のことでした。

    1929年のある日、ボワイエは作曲家ジャン・ルノワールの家をたずねました。ジャンは、自分が1923年に作詞・作曲した曲「聞かせてよ、愛の言葉を」を、あるソプラノ歌手にレッスンしていました。ボワイエはその美しい曲を聴いて「私にもうたわせて」と頼みました。彼女のささくやようにしっとりと歌いあげる甘い歌声はすばらしいものでした。そして翌年にレコーディングされ大評判になりました。第1回ディスク大賞を獲得しました。

   当時は暗い現実的なシャンソン(シャンソン・レアリスト)が愛唱されていましたが、この曲の流行によって甘くロマンチックなシャンソンも好まれるようになりました。ボワイエは、「シャントゥーズ・サンチマルタン」(感傷的女性歌手)と呼ばれ、シャンソン・ド・シャルム(魅惑のシャンソン)の代表的な歌手の先駆者となりました。また彼女の成功は、同時にレコードという新時代をつくり、シャンソンが世界的に人気を博しました。わが国では、1933年に佐藤美子が日本最初のシャンソン・リサイタル「パリ流行歌の夕べ」を開き、その中で初演しました。その後、タカラヅカなどで盛んにうたわれ、シャンソン・ブームが到来しました。戦時中、武満徹は中学学徒動員で、兵隊からそっと隠れて手回し蓄音機でこの曲を聴いて作曲家になることを決意したといっています。

                 *

聞かせてよ きみが甘きことば

聞かせてよ きみがやさしことば

私の心に  ささやくきみ

愛すと

あなたの やさしいことばこそ

私のこころよ

いつもささやくとき 

私の心は  うれしさにはずみ

小さな小鳥のように震えているの

聞かせてよ  きみが甘きことば

聞かせてよ  きみがやさしことば

私の心に  ささやくきみ

愛すと

                    菅美沙緒訳詩

        :*

聞かせてよ、愛の言葉を

もう一度いってよ、甘いことをいろいろと

美しい話は

幾度聞いてもいいもの

いつまでも

この素晴らしい言葉が繰り返される限り

私はあなたを愛す

       *

ごぞんじでしょう

あなたの言葉を

ぜんぶ本気で信じはしないけれど

私はまだ、もっと好きなこの言葉を聞きたいの

愛撫するようなひびきを持ったあなたの声

ふるえながら愛の言葉を囁くその声は

美しい話をしながら、私を静かに揺する

心ならずもつい

愛の言葉を信じたくなってしまう

       *

とてもすてき

私の大事な宝物さん、幾分馬鹿になる事は

人生なんてしばしばあまり残酷すぎるから

もし夢を信じなければ

苦しみは直ちに消えて

慰められる心からのくちづけに

傷も癒される

愛を約束する誓いによってね

                橋本千恵子訳詞

2006年8月 8日 (火)

:ケネディを沈めた男・花見弘平

    アメリカ合衆国大統領ジョン・フィッツジェラルド・ケネディは、第二次世界大戦中は海軍で軍務に服し、ソロモン海域で哨戒魚雷艇(PTボート)の艦長だった。

    昭和18年8月1日、駆逐艦天霧以下4隻の駆逐艦はコロンバンガラ輸送作戦の帰途、闇の中に魚雷艇を発見した。天霧は前進全速、魚雷艇に体当たりした。魚雷艇は両断されて沈没した。この魚雷艇PT109の艦長こそ若き日のジョン・F・ケネディ中尉だった。

    昭和26年秋、下院議員として来日したケネディは、出迎えの国連協会の細野軍治に言った。「私は、南太平洋で戦った。そして、私の魚雷艇が撃沈されたことは、忘れ得ぬ思い出だ。私の艇を沈めた駆逐艦長に、ぜひ会いたい。さがして貰えないだろうか」

    海戦の日時、位置は、はっきりしていた。細野はさっそく第二復員局で調べた。駆逐艦天霧艦長、海軍少佐、花見弘平。しかし、花見は福島県に住んでいる。ケネディはその翌日に日本を離れなければならない。ケネディは心を残して、機上の人となった。

   かくして二人の再会は実現しなかったが、その後連絡を取り合うようになった。「昨日の敵は今日の友」太平洋戦争が生んだ男たちのドラマだった。

2006年8月 7日 (月)

夏目漱石とニーチェ

    夏目漱石が『吾輩は猫である』を執筆していた明治38年11月から39年夏までの創作メモをみると、しきりにニーチェの『ツァラトゥストラ』を異常な関心でもって熟読玩味したあとがみられる。

    近代的自我の確立は当時の知識人の重要な課題であった。自己本位の立場を確立とようとしていた漱石にとって、自己を神となすほど自我の絶対の主張者ととらえていたニーチェは、その意味で共感の対象でもあった。しかし自己追求の結果、生の目標としてニーチェの説く理想が超人であったとすれば、それは自ら極度の神経病に悩まされていた漱石の救いとはならず、むしろ自己滅却の東洋哲学にこそ救いがあると考える。ここから一転、西洋近代批判が始まり、個性尊重の西洋の悲劇、ひいては西洋追随の日本の将来の悲劇をみることになる。

    余談であるが、漱石門下から生田長江のようなニーチェ訳者、和辻哲郎、阿部次郎、安倍能成のようなニーチェ研究者、またニーチェへの関心をもち続けた芥川龍之介のような文学者が輩出するのも、漱石とニーチェの関わりに一因するのかもしれない。

2006年8月 5日 (土)

ニーチェとローデと『悲劇の誕生』

    ニーチェの最も親しい友人の一人であったエルヴィーン・ローデ(Erwin Rohde 1845-98)は、後にイェーナ大学、ハイデルベルク大学などの教授を歴任したギリシア宗教史の研究家である。

    ニーチェの処女作『悲劇の誕生』は、1872年1月に刊行されたが、その評判は悪かった。ニーチェの師でさえ、日記に「ニーチェの本、悲劇の誕生(才気走った酔っ払い)」と記したほどで、学界からしばらくは完全な黙殺状態が続いた。

    1872年6月、ヴィーラモーヴィッツ・メレンドルフは、ニーチェの卒業した高等学校プフォルタ学園の後輩で、「ニーチェ殿、貴君は母校プフォルタに何という恥をかかせたのだ」という『悲劇の誕生』に対する攻撃文で始まる「未来の文献学」というパンフレットを書いて、ニーチェの誤謬を詳しく論駁した。

    1872年10月、このメレンドルフの攻撃に対して、『似非文献学』というパンフレットで擁護のための論陣を張ったのが友人のローデである。次の一文が、ニーチェおよびローデのギリシア観の核心が何処にあったかをよく物語っている。

    「しかしもし美に耳を傾ける者すべてによって感じ取られた神話的悲劇のディオニュソス的真実を言葉、すなわち概念によって示唆することさえも困難であり、究明することなど不可能だとすれば、その理由は、ここで世界の最も深い秘密があらゆる理性やその表現であるふつうの言語よりはるかに高次な言語によって語られているからである。」

    ともかくニーチェは処女作の不評によって、スイスのバーゼル大学の冬学期には文献学専攻学生の聴講皆無となった。しかしこうした『悲劇の誕生』の悲劇的反響にもかかわらず、現在『悲劇の誕生』はニーチェの代表作の一つといわれている。ギリシア文献学とワーグナー芸術とショーペンハウアー哲学が基本的要素であるが、ニーチェの個性的思想と文明批評があり、一種の「魔女の飲み物」といわれるような刺激的な書物である。後世の芸術家に与えた影響は大きく、たとえば朝日新聞社の「一冊の本」に、画家の岡本太郎や音楽評論家の吉田秀和などは、ともに『悲劇の誕生』を推していることはなど興味深いものがある。

2006年8月 1日 (火)

心に喜びを持て

    激しい雨や風に襲われれば、鳥までふるえあがる。これに対して、晴れたおだやかな日和に恵まれれば、草木までが喜びにあふれる。これで明らかなように、天地には一日として和気が欠かせず、人の心にも一日として喜びが欠かせないのである。(菜根譚)

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