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2006年8月27日 (日)

『花ざかりの森』の頃の三島由紀夫

    昭和16年5月、学習院中等科五年生の平岡公威(16歳)は、国語教師の清水文雄に「花ざかりの森」の原稿を見せた。感銘を受けた清水は、自分も同人であった雑誌『文芸文化』の編集会議にかけ、全員の賛同を得て、「三島由紀夫」のペンネームで、同年9月号から4回にわたって連載した。この連載中の、昭和16年12月8日、大東亜戦争(敗戦後に太平洋戦争)が始まった。三島は、詩「大詔」を書き、開戦の詔勅が出た感動を言い、華々しい戦果を祝いながら、「むらぎものわれのこころ」は、「よろこびの声もえあげずただ涙すも」と記した。

   そのような状況下で、三島は、翌17年に学習院高等科へ進み、『文芸文化』に次々と短編小説を発表するとともに、学習院内の友人と雑誌氏『赤絵』を創刊、『輔仁会雑誌』にも編集委員として係わるなど、年少作家として活躍した。そして、蓮田善明の配慮と、『文芸文化』に係わりを持っていた富士正晴の奔走で「花ざかりの森」の刊行の話が進められた。しかし、戦争下、本の刊行はおそろしく困難で、容易ではなかった。そのうちに戦況は厳しさをまし、18年10月には、文科系学生の徴収猶予が取り消され、東京神宮外苑競技場で、学徒出陣壮行会が盛大に行われ、蓮田も二度目の召集を受けた。早生まれで多くの同級生より一歳下の三島も、翌年夏には入隊を覚悟しなくてはならない事態となった。しかし、そうなればなるほど彼は、小説執筆と歌舞伎見物に精を出した。

   昭和19年10月、学習院高等科を首席で繰り上げ卒業し、東大法学部に入学すると同時に、同級生のほとんどが入隊するのを見送った。それとともに『花ざかりの森』(七丈書院)がやっと出版された。新刊がほとんどない事情もあって、またたくまに売り切れた。そうして、紹介するひとがあって、『文芸』編集長の野田宇太郎の許に小説の原稿を持ち込み、その活動領域を広げようとした。そうした折りもおり、20年2月、召集を受けた。本籍地であった兵庫県印南郡志方村に赴いたが、出発前からひいていた風邪が悪化、高熱に苦しんでいたのを、軍医は肺浸潤と誤診、即日帰郷となった。彼が入るはずであった隊は、やがてフィリピンに送られ、ほとんど全滅したという。風邪と誤診という二重の事態がなければ、辿ったに違いない自分の運命について、のち、三島はしばしば思いを巡らすことになる。

   昭和20年5月、勤労動員で神奈川県海軍高座工廠の寮に入る。8月、高座工廠の寮で短編「岬にての物語」執筆。蓮田善明、マレー半島ジョホールバールで終戦四日目に自決。(参考:『新文芸読本・三島由紀夫』河出書房新社)

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