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2006年7月17日 (月)

釧路と石川啄木

   石川啄木(23歳)は窮乏のため家族を小樽に残して、釧路新聞社に入社する。釧路新聞社長の白石義郎と国鉄釧路駅に着いたのは明治41年1月21日の夜だった。

   さいはての駅に下り立ち

   雪あかり

   さびしき町にあゆみ入りにき

    (『一握の砂』所収、初出『スバル』明治43年11月号)

   啄木日記によると、「九時半此釧路に着。停車場から十町許り、迎えに来た佐藤国司(釧路新聞社理事)らと共に歩いて、幣舞橋(ぬさまいばし)といふ橋を渡った。浦見町の佐藤氏宅に着いて、行李を下す。秋元町長、木下成太郎(道会議員)の諸氏が見えて十二時過ぐる迄小宴」と記入されている。

   啄木が釧路駅に下り立つた時、駅周辺は草ぼうぼうとしてひっそりしていたが、当時の釧路は港町として栄え、松前藩に属していた時から鰊漁場として有名だった。釧路港は木材・硫黄・昆布等の輸出で賑わい、安田鉱業の春採炭鉱の竪杭が開かれ、富士製紙の工場やマッチの軸木工場が創業される等、町全体は活気を呈していた。当時の人口は一万二千。釧路築港が決定したのは明治42年であり、当時の釧路は函館や小樽ほどの賑わいはなくても港町としてそれ相当の賑わいをみせていた。

   啄木は明治41年4月釧路を去り、東京に出て創作的生活に入るが、あるとき、釧路時代を懐かしく思い出し、釧路を美化するつもりでこの一首をつくり「さいはての駅」と歌ったのである。

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