ヨーロッパの都ウィーンの城壁
ウィーンは、ローマ時代にドナウ河畔に建設された都市である。ドナウ川の河川交通によって、黒海やバルカン半島との結びつきも強く、スラブ世界に対するゲルマン世界の接点の都市でもある。15世紀半ば以降、神聖ローマ皇帝の帝位を独占したハプスブルク家の支配下におかれ、ドイツばかりでなく、ヨーロッパの中心となった。
16世紀、神聖ローマ帝国カール5世は、スペイン国王も兼任し、ヨーロッパに強大な権力を誇った。これに対抗したフランス王フランソワ1世は形勢不利となり、オスマン帝国のスルタン、スレイマン大帝に支援を要請した。地中海進出をねらい、スペインと対立していたスルタンは、この要請をうけた。
スレイマン大帝は、ウィーンを攻略すべく、バルカン半島を北上し、ハンガリーを征服して、1529年にはウィーンを包囲した。大口径の攻城砲をもち、バルカン諸国の捕虜兵士も動員したオスマンの大軍は、長い幾筋ものジグザグの濠を掘って城壁に迫っていった。防衛側は城壁が壊される前に、内側に新たな城壁をつくりあげた。この作業にウィーンの住民は子供にいたるまで動員された。冬の到来により包囲はとかれ、オスマン軍はひきあげた。
このウィーン包囲は、神聖ローマ皇帝の権力を低下させ、帝国内に発生したルターの宗教改革との妥協を余儀なくさせ、プロテスタントの成立をうながすという効果も生んだ。また、スペインとの間に、地中海の覇権をめぐる海戦も行われた。
フランスは、オスマン帝国内での交易を保護され、カピトゥレーションという貿易特権をスルタンから授与された。のちにヨーロッパ列強は、彼らに与えられたカピトゥレーションを口実にしだいにオスマン帝国を侵略した。これは、19世紀に中国や日本に強要した不平等条約の原型である。フランスは同時に、イェルサレムの聖地管理権も与えられた。
オスマン帝国は17世紀末(1683年)、再びウィーンを包囲したが、ポーランド国王ヤン3世(ヤン・ソビェスキ)に撃退された。
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