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2006年7月10日 (月)

山内一豊とその妻

    山内一豊(1545~1605)は織田信長に仕え、元亀元年(1570)の金ヶ崎退去のさい功を挙げて、翌年秀吉に配属される。以後、山崎合戦、賤ヶ岳合戦、小牧・長久手の陣などに従軍。天正13年には近江八幡山に配された秀次付きの老臣となり、近江長浜二万石、天正15年従五位下対馬守に叙任。天正18年小田原攻めの後の知行割で秀次が尾張清洲城に移されると、遠江掛川五万石の城主となる。この間、ずっと秀次の老臣の地位にあったが、文禄4年の関白秀次失脚には連座しなかった。

    関が原の戦いでは東軍に属し、下野小山会議で東海道筋の掛川城を徳川家康に明け渡すと発言、家康を喜ばせた。戦後、土佐一国二十万石余を与えられ、高知城を築いて居城とした。一豊の妻は夫の行動を誤らせなかった賢夫人として名高い。一豊死去の翌日、妙心寺の単伝士印より見性院(1557-1617)の法号を受け、京都桑原町に閑居した。

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