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2006年7月 9日 (日)

三木城と別所長治

   三木城は別名釜山城(かまやまじょう)ともいう。明応元年(1492年)に別所則治(べつしょのりはる)が釜山城を大修築したのが三木城のはじまりである。ただ三木城の名は、羽柴秀吉による「三木の干殺し」(みきのひごろし)として、戦国史上有名になった。

   天正5年になると毛利勢が播磨への侵略をはじめたので、織田信長は羽柴秀吉を総指揮官に任命して中国経略にのりだした。秀吉は姫路城を居城として、いよいよ中国進撃を開始しようとしたところ、東播磨に勢力をもっていた三木城の別所長治が毛利氏とつうじて信長に反旗を翻したために、秀吉はまず三木氏を討つべく書写山円教寺を陣所とした。

    秀吉は、三木城の包囲を足かけ3年つづけ、城方の糧道を遮断する。そこで、別所長治は、やむなく城兵の助命を条件に自刃、開城した。その後、別所氏に味方していた魚住城・高砂城・御着城もそれと前後して陥落した。天正8年(1580年)のことである。

   現在も三木城跡には、空井戸と、別所長治の辞世の歌碑がある。

   「今はただ恨みもあらじ諸人の 命にかわる我身と思えば」

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