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2006年7月24日 (月)

時任謙作の年齢

   「暗夜行路」の後編の部分、妻の不貞を知った謙作は苦悩の果てに、伯耆の大山に登る。

   「彼は青空の下、高い所を悠々舞っている鳶の姿を仰ぎ、人間の考えた飛行機の醜さを思った。彼は三四年前自身の仕事に対する執着から海上を、海中を、空中を征服していく人間の意志を賛美していたが、いつか、まるで反対な気持ちになっていた。人間が鳥のように飛び、魚のように水中を行くといふ事は果たして自然の意思であろうか。かういふ無制限な人間の欲望がやがて何かの意味で人間を不幸に導くのではなかろうか。人知におもいあがっている人間はいつかそのため酷い罰を被ることがあるのではなかろうか」(後編14章)

    「彼は自分の精神も肉体も、今、この大きな自然の中に溶け込んで行くのを感じた。その自然というのは芥子粒ほどに小さい彼を無限の大きさで包んでいる気体のような目に感ぜられないものであるが、その中に溶けて行く、それが還元される感じが言葉に表現できないほどの快さでもあった。なんの不安もなく、眠りたい時、眠りに落ちて行く感じにも多少似ていた。」(後編19章)

と考え、生死をさまよいながらも、謙作は大自然の中でよみがえり、自己の運命を甘受できるようになったのである。

    「暗夜行路」は、16年にわたって書き継ぎながら完成した作品である。「暗夜行路」の前身である「時任謙作」から数えると実に24年の歳月を要した。前編は大正10年1月から8月まで一気に発表されたが、後編は大正11年1月から昭和3年6月まで断続的に発表され、完結には昭和12年4月までまたねばならなかった。以下、略年譜で整理してみる。

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大正元年の秋、志賀直哉は父の志賀直温との不和から家を出て、尾道へ行く。このころ「時任謙作」に着手。(29歳)大正3年まで書き継いだがついに発表するに至らなかった。

大正2年12月、夏目漱石から「東京朝日新聞」の連載小説を書くようにすすめられる。(30歳)

大正3年7月、上京し漱石を訪ね、新聞小説執筆を断る。夏、大山(だいせん)に登る。(31歳)

大正8年4月、「中央公論」に「憐れな男」を発表(前編2の14章)

大正9年1月、「新潮」に「謙作の追憶」を発表。

大正10年1月、「改造」に「暗夜行路」前編の連載を開始する。(37歳)

昭和3年1月、「暗夜行路」後編15章までで執筆を中断する。(45歳)

昭和12年4月、「暗夜行路」後編の最終部分16~20章を完成させ完結する。(54歳)

        *

   時任謙作の年齢は、平野謙の推定によると、前編は二十代の終わりで、後編は三十前後ということである。ちなみに作者は大正2年に数え年で31歳だった。「暗夜行路」が青年から壮年への移りゆきを描いていることは疑いないにしても、後編の主人公はとても三十歳前後とは思えない。それは長い断続的な執筆のため著者の人間的成長が作品に投影されているからである。つまり当時45歳の志賀自身が31歳の時に登った大山での体験を作品に交錯させているため老成した時任謙作になったのだろう。

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    昭和3年から10年間の長い空白期間の事情を、友人の武者小路実篤が思い出として次のように語っている。

「暗夜行路」を志賀が中断して何年か、そのままになっていた。ぼくはそれを残念に思い、ある時、奈良に志賀を訪ねた時、「暗夜行路はあとどのくらいかけば終わりになるのだ」と聞いたら、志賀は「五六十枚だ」と言った。「五六十枚なら書いたらいいだろう」とぼくが言ったら、志賀は「読み返さなければ」と言った。「読み返せばいいじゃないか」と言ったら、「それでも」と言うような返事だった。もう何十年も前の話だから言葉は少しちがっているかも知れないが。ぼくははっきり覚えている。その時若い人がわきにいて、志賀が仕事をしないことを残念がったら、志賀はその方を向いて、「君にそんなことを言う資格はない」ときっぱり言ったので、その人は驚いて黙ったが、ぼくには反対しなかった。

         *

「小説の神様」をもってしても、最後の5章を書き上げるために、10年の歳月を要したこの作品は、これからもさまざまな角度から研究できるであろう。

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