私がこの哀しい物語に激しく胸を打たれて、ぜひ本に書き残そうと決心したのは、パリのアンタン街で、家具類やぜいたくな骨董品の競売会がある旨の一枚の貼り紙を見たのがきっかけだった。この競売は、持ち主である女主人が死んだので行われるのだった。私は根が骨董好きなだけに、この機会をのがさず、買わないまでも、せめて見るだけは見ようと思い出かけて行った。
表門のところまで来ると、すでに物見高い客でいっぱいだった。邸内の部屋には、すばらしい家財道具や骨董品が並べられていた。バラ材やブール細工の家具、セーヴル焼きやシナ焼きの花瓶、サクソン焼きの陶器人形、しゅす、びろうど、レース、金銀宝石類、化粧品など、なにからなにまでそろっていた。私はこれらの品々をじっと眺めまわした。どれもこれも哀れな女の賤業をしのばせるものばかりだった。そして私は心ひそかに、この女に対する神の慈悲を思った。なぜなら、神はこの女を世の常のこらしめの時の来るまで生きながらえさせずに、娼婦にとっては第一の死ともいえるあの老齢にまで達しないうちに、栄華と美しさのなかで死なせたもうたからである。
「ちょっとおたずねしますが、ここに住んでおられた方はなんとおっしゃるんですか?」
「マルグリット・ゴーチェさんです」
私はこの人なら名前も知っていたし、またシャンゼリゼでよく姿を見かけたことを思い出した。彼女は必ず毎日、すばらしい二頭の栗毛の馬にひかせた小形の青い箱馬車に乗ってやってきた。そして私は、彼女がああいったたぐいの女性にはまれな一種の気品を持っていたことに気づいたものだった。またこの気品は、比類ない美しさによっていっそう引き立てられていた。
「彼女が亡くなったんですって?」「そうです」
「いつのことです、それは?」「たしか三週間ばかり前です」
「それも あなた肺病でね。みじめな死に方だったとか・・・・」
「しかし、競売とはね」「大変な借金があったらしいから」
「生前はパトロンにかこまれて派手な生活をしていのに」
「どうせそんなもんさ。所詮は卑しい娼婦なんだから」
私は足早にその場を離れた。
生前パリでは知らぬ者のないほど美しく輝いていたマルグリット・ゴーチェ。気品ある大きな瞳、長いまつ毛がビロードの桃のような肌にうっすらと影を落とし、微笑めば真珠の歯がキラリとのぞいて、一目見た人を魅了させる。彼女の側にはいつも青年貴族たちがかしずくように従っていてパリの夜を飾っていた。私は今でもよく覚えている。彼女の側にはいつも椿(カメリア)の花束があった。もちろん私は彼女とは言葉を交わしたことは一度もない。
競売は故人の邸の客間で行われた。無責任で物好きな連中のざわめき。誰一人マルグリットの死を哀しんでいる者はなかった。衣装、カシミアのショール、宝石などは、まるで羽が生えたように売り切れてしまった。そうしたものは、私に用のないものだから、帰ろうとしたが、突然の競売人の大声に足をとめた。
「書物一冊、製本とびきり上等。天金。表題は、マノン・レスコー。扉になにか書き入れがあります。まず10フランから!!」
「12フラン」と、かなり長いあいだ沈黙がつづいた後だれかが叫んだ。私は思わず「15フラン」と言った。「30フラン」挑戦的な声がどなった。「35フラン」「40フラン」「50フラン」と競争が続いた。
「100フランだ!!」
書物は結局、私の手に落ちた。私はその高価な「マノン・レスコー」を手にしてページを開けた。扉に何か書き入れがあった。
「マノンをマルグリットに贈る。慎み深くあれ。」
そしてそのあとにアルマン・デュヴァールと署名してあった。
『マノン・レスコー』は哀切きわまりない物語である。私は、この物語のどんな些細な部分も覚えているが、この本を手に取るたびに、いつも同感をそそられてページをひらき、そして幾度読んでもつねに、作者アベ・プレヴォの女主人公とともにある思いがするのだった。実際この女主人公は、まるで私が現実に知っていた女のような気がするほどに真実性を持っていた。マノンやマルグリットを思うにつけても、思い出されるてくるのは、私が知っていた女たち、いつも歌を口ずさみながら、ほとんど同じような死の道をたどっていった女たちのことだった。哀れな女たちよ!! もしも彼女たちを愛してやることが悪いというのなら、せめて憐れんでやってほしい。母でもなく、妹でもなく、娘でもなく、また人妻でもない女、そういった女をさげすまないようにしよう。家庭に対してはもっと尊敬の念を抱き、利己主義に対してはもっと寛大な目で接してやろう。神は、かつて一度も罪を犯したこともない百人の正しい人々よりも、ひとりの罪人の悔い改めたのを喜びたもうものであるから、われわれは神をお喜ばせするようつとめようではないか。そうすれば、神は必ずやわれわれにあたってあつく報いたもうであろう。地上の煩悩のために身を持ちくずしはしたものの、神にすがりさえすれば救われるような人々に対しては、つとめて寛大な気持ちでいよう。(『椿姫』第1話)
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