無料ブログはココログ

« 2006年6月 | トップページ | 2006年8月 »

2006年7月31日 (月)

地蔵信仰

   地蔵は、数多くの仏菩薩の中でも、もっとも日本人に身近な存在である。地蔵信仰は中国において発展したのち、日本に伝来した。その後、平安末期から鎌倉期にかけて、当時の末法思想とも関連して、日本人の信仰生活に浸透していった。

    日本における地蔵信仰の特徴の一つは、子供との結びつきである。地蔵は、現世と来世の境界にある賽の河原で、地獄の鬼から子供を守るとされる。このイメージは、地蔵和讃の流布を通じて、近世以降の民衆に強くアピールしてきた。子育地蔵などは全国に数多くみられる。不運な死を遂げた子供の供養のためには地蔵像が建立されることが多いのも、その一例である。また地蔵の石像に赤いよだれかけが掛けられるのも、地蔵と子供の一体観から出ている。また、現世と来世との境の仏としての地蔵は、村の辻固めの神である道祖神(サエノ神)と習合した。今でも村境に地蔵の像が多いのは、そのためである。

   また地蔵は人間側の希求に巧みに応ずるという形式でもって、時代ごとに民衆ときわめて密接な関係をもってきた。延命地蔵なども近世以降、民衆の人気を得た一例である。また昨今大いに隆盛をみている水子地蔵もまたその一例である。供養の対象が水子という子供の霊であることと同時に、世間的には公表しにくい対象への供養という場面で、他の仏菩薩ではなく地蔵が人々の関心をよぶ点は興味深い。いずれにせよ、地蔵は世の動きに敏感な仏である。これは一つには、地蔵に関する経典が多く中国における偽経とされているなどの点から、教義的にみて地蔵はけっして中核的な仏菩薩としての位置を与えられてこなかったという事実によるのかもしれない。

ローマの休日・王女と安物ワイン

   日本ではワインというと、まだまだ高級志向があるが、ヨーロッパではワインは家庭の食卓にでるもので安価なワインこそ市井の暮らしの象徴だ。そうしたテーブル・ワインを映画の中でさりげなく小道具として登場させているのが「ローマの休日」のワン・シーンである。

   ヨーロッパ各地を親善訪問中のアン王女は、こっそり抜け出し一日ローマ見物を満喫した。夜の船上のダンス・パーティーでは、王女を連れて行こうとする秘密探偵たちとの大乱闘で、新聞記者ジョーと二人は川に転落してずぶ濡れになる。

    王女がシャワーを浴び、ガウン姿のまま部屋に出てくると、ジョーがワラの袴をはいたキアンティの赤を差し出した。トスカーナ地方を代表するワインだが、このタイプはとても上物とはいえず、ましてや王室の人が飲むような代物ではない。それを王女はふつうのグラスで飲み干し、「もう一杯、ください」と催促した。半日前、王女はローマの街で生まれてはじめてカフェに入り、躊躇せずにいつも飲み慣れているシャンパンを注文していた。いまは、安物ワインを味わっているのである。王女が名残惜しそうにグラスを傾ける姿が何ともいじらしかった。

2006年7月29日 (土)

宝井其角

    榎本氏。榎本は母方の姓で、のち宝井氏。別号晋子(しんし)・螺舎(らしゃ)など。寛文元年(1661)7月17日生まれる。父は江戸日本橋堀江町に居住した竹下東順(とうじゅん)という。東順は膳所藩主の侍医で、歌や俳諧をよくした。この父に従って、17・18歳ころ(延宝初年)芭蕉に入門したらしい。芭蕉に愛され、芭蕉を敬愛していながら、その作風は都会的趣味感覚によって貫かれている。嵐雪と並んで芭蕉門下の桜桃と称された。天和3年、蕉風展開に一時期を画した『虚栗』を編み、俳壇にその地位を確立。宝永4年、47歳で没。句集には自選の『五元集』(延享4年刊)がある。

日の春をさすがに鶴の歩み哉

鐘ひとつ売れぬ日はなし江戸の春

なつかしき枝のさけ目や梅の花

鶯の身をさかさまに初音哉

傘(からかさ)に塒(ねぐら)かさうよぬれ燕

白魚や海苔は下辺の買合せ

越後屋に絹さく音や更衣

夕立にひとり外みる女かな

稲づまやきのふは東けふは西

声かれて猿の歯白し峯の月

名月や畳の上に松の影

あれきけと時雨来る夜の鐘の声

此の木戸や鎖のさされて冬の月

我が雪と思へば軽し笠の上

初霜になんとおよるぞ舟の中

からびたる三井の二王や冬木立

鳩部屋の夕日しづけし年の暮

耳づくのひとり笑ひや秋の暮

2006年7月28日 (金)

牧畜と家畜

    牧畜とは群れをつくる有蹄類の飼養をさすと言われる。そこで対象となる家畜について述べる。

    牧畜の対象になる有蹄類家畜は、動物学的にはそのヒヅメの数から奇蹄目と偶蹄目の二つにわかれている。奇蹄目のウマ科に属す家畜として、ウマとロバがある。この両者はたいへんちかく、交配によってラバが生産されていることはよく知られている。やや特殊になるが、古代メソポタミアで戦車をひいていたという、ロバ・ウマ両方に似たオナーゲルもこれらにくわえられるだろう。

    偶蹄目のウシ科には、ウシ、スイギュウ、ヤクがある。ヤクはヒマラヤからチベット、さらにモンゴルにかけてみられ、ウシにくらべるとかなり毛が長い家畜である。これらには、ウシと同じ種に属するが形態のかなりちがうインドウシ(コヴウシ)や、ウシとの関係がなおはっきりしない、アッサムから東南アジアに分布するガヤル(ミタン)とバンテンもふくまれることになる。ガヤルもバンテンもウシにちかいことだけははっきりしており、いずれもウシと交配可能である。この点ではヤクの場合もおなじで、ウシとのあいだにできる雑種のメスには繁殖力がある。ウシ科のなかで小型のものとして、ヒツジ、ヤギがある。

    ラクダ科にうつると、まず旧大陸には二種類のラクダがいる。ヒトコブラクダは乾燥と暑さに強く、良好な遊牧地であれば何週間も水なしですごせるほどで、西南アジアと北アフリカに分布する。もう一方のフタコブラクダは冷涼な気候に適し、おもに中央アジアに分布している。両者をみくらべると、毛の長さや体形はかなりちがうが、やはりおたがいにたいへんちかい関係にあり、交配によって雑種をつくることができる。他方新大陸(アンデス)のラクダ科に属す家畜として、リャーマ、アルパカがいる。これらも外見はかなりちがうが、同じ種と考えられる。

    シカ科のトナカイは別の意味で私たちになじみが深く、忘れることのできない家畜である。トナカイは寒冷なツンドラや森林に適しており、ラクダのように他の家畜では利用できない環境を利用することを可能にしている。

    有蹄類家畜としてはほかにイノシシ科のブタがいるが、これは群れ生活をせずにふつうは牧畜の対象とは考えられていない。それでもヨーロッパの村落ではブタの群れが放牧され、他の家畜と似たあつかいをうけることがあり、場合によってはこれまであげたものと同列に考えることができるように思われる。

2006年7月24日 (月)

時任謙作の年齢

   「暗夜行路」の後編の部分、妻の不貞を知った謙作は苦悩の果てに、伯耆の大山に登る。

   「彼は青空の下、高い所を悠々舞っている鳶の姿を仰ぎ、人間の考えた飛行機の醜さを思った。彼は三四年前自身の仕事に対する執着から海上を、海中を、空中を征服していく人間の意志を賛美していたが、いつか、まるで反対な気持ちになっていた。人間が鳥のように飛び、魚のように水中を行くといふ事は果たして自然の意思であろうか。かういふ無制限な人間の欲望がやがて何かの意味で人間を不幸に導くのではなかろうか。人知におもいあがっている人間はいつかそのため酷い罰を被ることがあるのではなかろうか」(後編14章)

    「彼は自分の精神も肉体も、今、この大きな自然の中に溶け込んで行くのを感じた。その自然というのは芥子粒ほどに小さい彼を無限の大きさで包んでいる気体のような目に感ぜられないものであるが、その中に溶けて行く、それが還元される感じが言葉に表現できないほどの快さでもあった。なんの不安もなく、眠りたい時、眠りに落ちて行く感じにも多少似ていた。」(後編19章)

と考え、生死をさまよいながらも、謙作は大自然の中でよみがえり、自己の運命を甘受できるようになったのである。

    「暗夜行路」は、16年にわたって書き継ぎながら完成した作品である。「暗夜行路」の前身である「時任謙作」から数えると実に24年の歳月を要した。前編は大正10年1月から8月まで一気に発表されたが、後編は大正11年1月から昭和3年6月まで断続的に発表され、完結には昭和12年4月までまたねばならなかった。以下、略年譜で整理してみる。

              :*

大正元年の秋、志賀直哉は父の志賀直温との不和から家を出て、尾道へ行く。このころ「時任謙作」に着手。(29歳)大正3年まで書き継いだがついに発表するに至らなかった。

大正2年12月、夏目漱石から「東京朝日新聞」の連載小説を書くようにすすめられる。(30歳)

大正3年7月、上京し漱石を訪ね、新聞小説執筆を断る。夏、大山(だいせん)に登る。(31歳)

大正8年4月、「中央公論」に「憐れな男」を発表(前編2の14章)

大正9年1月、「新潮」に「謙作の追憶」を発表。

大正10年1月、「改造」に「暗夜行路」前編の連載を開始する。(37歳)

昭和3年1月、「暗夜行路」後編15章までで執筆を中断する。(45歳)

昭和12年4月、「暗夜行路」後編の最終部分16~20章を完成させ完結する。(54歳)

        *

   時任謙作の年齢は、平野謙の推定によると、前編は二十代の終わりで、後編は三十前後ということである。ちなみに作者は大正2年に数え年で31歳だった。「暗夜行路」が青年から壮年への移りゆきを描いていることは疑いないにしても、後編の主人公はとても三十歳前後とは思えない。それは長い断続的な執筆のため著者の人間的成長が作品に投影されているからである。つまり当時45歳の志賀自身が31歳の時に登った大山での体験を作品に交錯させているため老成した時任謙作になったのだろう。

                    *

    昭和3年から10年間の長い空白期間の事情を、友人の武者小路実篤が思い出として次のように語っている。

「暗夜行路」を志賀が中断して何年か、そのままになっていた。ぼくはそれを残念に思い、ある時、奈良に志賀を訪ねた時、「暗夜行路はあとどのくらいかけば終わりになるのだ」と聞いたら、志賀は「五六十枚だ」と言った。「五六十枚なら書いたらいいだろう」とぼくが言ったら、志賀は「読み返さなければ」と言った。「読み返せばいいじゃないか」と言ったら、「それでも」と言うような返事だった。もう何十年も前の話だから言葉は少しちがっているかも知れないが。ぼくははっきり覚えている。その時若い人がわきにいて、志賀が仕事をしないことを残念がったら、志賀はその方を向いて、「君にそんなことを言う資格はない」ときっぱり言ったので、その人は驚いて黙ったが、ぼくには反対しなかった。

         *

「小説の神様」をもってしても、最後の5章を書き上げるために、10年の歳月を要したこの作品は、これからもさまざまな角度から研究できるであろう。

2006年7月23日 (日)

朝日新聞の懸賞小説

   朝日新聞社は無名の新人を発掘するために、明治末期からしぱしば懸賞小説を主催している。賞金は大正14年の「大地は微笑む」が一千円、昭和39年の「氷点」が一千万円といずれも当時としては破格の大金である。これまでの受賞者で現在余のその名を知るところの著者は、田村俊子、吉屋信子、三浦綾子といずれも女流作家であることが何か理由があるかは不明である。

  受賞作品と受賞者の一覧

明治37年「長恨」大江素天

明治38年「琵琶歌」黒風百雨楼、「人こころ」多和田菱軒

明治39年「人の罪」鳥海嵩香

明治40年「宗行卿」中原指月

明治44年「あきらめ」田村俊子、「父の罪」尾嶋菊子

大正7年「宿命」沖野岩三郎

大正9年「地の果てまで」吉屋信子、「猿」木村恒、「足」岩瀬重五郎、「恐怖の影」大橋房子、「白露の歌」篠平作(新見波蔵)

大正11年「新しき生へ」井出訶六

大正12年「淡路町心中」藤田草之助、「晴れゆく空」辻本和一

大正14年「紙上映画・大地は微笑む」吉田百助、「黎明」番匠谷英一

大正15年「二つの玉」牧野大誓

昭和2年「或る醜き美顔術師」川上喜久子、「道中双六」秋山正香、「光は暗から」加藤秀雄、「二つの心」小林しづ子、「追われる者」山河権之助、「秋子と娘達」雨宮静子、「群青」花田うた子

昭和4年「罌栗坊主を見る」光成信男、「眉を開く」黒枝耀太郎

昭和5年「死芽」安田八重子、「踊る幻影」内田虎之助、「緑の札」石原栄三郎

昭和10年「緑の地平線」横山美智子

昭和15年「桜の園」大田洋子、「英雄峠」松前治策

昭和39年「氷点」三浦綾子

駆逐艦雪風

   日本海軍が多くの試行錯誤を経て生み出した理想的な艦隊型駆逐艦といわれた陽炎型の中でも、雪風は最優秀にして強運の艦だった。

    1940年1月20日、陽炎型駆逐艦の8番艦として竣工

    1942年5月ミッドウェー海戦、10月南太平洋海戦、11月第3次ソロモン海戦

    1943年1月ガダルカナル島撤収作戦、7月コロンバンガラ島沖海戦

    1944年6月マリアナ沖海戦、10月レイテ沖海戦、11月空母信濃護衛

    1945年4月戦艦大和沖縄特攻

   雪風は、太平洋戦争の海戦のほぼ総ての作戦に参加しながら、奇跡的に無傷で終戦を迎えた幸運な艦だった。戦後、復員輸送に従事し、1947年7月賠償艦として中華民国へ引き渡され、丹陽(タンヤン)と改名して長らく同海軍で活躍したが、老朽化により1969年に除籍、解体され、1971年に蛇輪と錨のみが返還され、現在、広島県江田島の海上自衛隊第1術科学校に展示されている。

2006年7月22日 (土)

丸目蔵人佐長恵(ながよし)

   丸目蔵人(1540~1629)は、肥後人吉(熊本県球磨郡錦町)に生まれた。後に石見守と称した。三人の弟とともに剣術を修行し、19歳で京都にのぼった時には、かなりの腕前であった。一説には塚原卜伝について新当流を学んだとも伝えられるがはっきりしない。後にタイ捨流(または、タイ捨新陰流)をとなえ、21流の奥義をきわめた人である。タイ捨流は、熊本をはじめ宮崎方面にも広がり、今も受け継がれている。

   丸目蔵人が上泉伊勢守と勝負したのは、永禄元年(1558)の上京した年である。上泉は木剣ではなく、考案したばかりの袋竹刀を用いた。「相手を傷つけるような稽古であってはならぬから」と上泉は説明したが、丸目は初めて見る道具であるだけに、内心軽く扱われているようで誠に不服であった。

   しかし、いざ立ち合って見ると、丸目などのとうてい及ぶところではなく、二度までも面をとられ、三本目は体にあたりを食って押し倒された。西国では多少知られた存在の丸目も、まるで顔色はなかった。上泉は「筋は良い」と評した。丸目はこれより上泉に入門し、一層の剣技をみがくこととなった。5年修行した後、丸目は穴沢浄賢、疋田文五郎、柳生但馬守とともに上泉伊勢守門下の四天王と称せられるようになった。

人はパンだけで生きるのではない

    モーセは言う。「あなたの神、主が導かれたこの四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあるごと、すなわち御自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた。主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。」(申命記8章2~3)モーセは、神の助け、助言、律法がなければ、この世での収穫物も人間自身の知識も生存には不十分であると結論づける。さらに、それに背けば、人間は死ななければならない。(申命記8章14節)

    「人はパンだけで生きるのではない」という言葉は、イエスが新約聖書で引用しているトーラーの多くの言葉のひとつである。ただし、イエスは「生きるのではない」を「生きるべきではない」に、言い換えている。

立志について

    孔子の志とは、理想の国家の建設など壮大なものを思うだろうが、日常心がけている仁や信といった基本の実践であった。そして徳を崇くして業を建てようとするには、先ず志を立て、しっかりした目標を持つことである。志を立てて、堅固にして、変えず、強めて息まざれば、期するところ遠大であっても、到達するという。

子曰く、吾十有五にして学に志す(為政)

子曰く、三軍も師を奪うべきなり、匹夫も志を奪うべからざるなり(子罕)

(大軍でも、その総大将を奪い取ることはできる。しかし、一人の傲慢な男でも、志を立てた以上は、その志を奪い取ってこちらの意思に服従させることはとうていできない)

子路曰く、願はくは子の志を聞かん。子曰く、老者は之を安んじ、朋友は之を信じ、少者は之を懐けん(公冶長)

(子路さん、「先生の志望をお聞かせくださいませぬか」先生、「老人には安心してもらい、友だちとは信頼し合い、若い者には懐かれるようにありたい」)

子曰く、道に志、徳に拠り、仁に依り、芸に遊ぶ(述而)

(道理にかなうことを目標とし、体験を基礎として人間らしく在ることを基準としながら、思う存分教養人としての生活を楽しむものだ)

2006年7月21日 (金)

天からのマナ

   エジプトから脱出したイスラエル人は、荒野での食糧不足についてモーセに苦情を申し立てたあとで、エホバは彼らのために「天からパンを降らせる」と約束する。そのうえ、うずらの肉さえ投げ与える。エホバが与えた鳥はありふれた種類の鳥だったが、パンはこれまでに見たことがないようなものだった。イスラエル人は「これは何だろう」と口々に言った。そこで、そのパンは「マナ」と呼ばれるようになった。しかし、イスラエル人たちが、いぶかったのは、彼らがエジプトにあまりにも長く閉じ込められていたからである。マナとは、シナイ半島に自生するタマリスクの潅木から分泌される砂糖のようなものである。しかし、それがどのようにしてできるかということを知れば、食欲も鈍るだろう。「マナ」はタマリスクの樹皮の結晶で、アブラムシが分泌する甘露のように昆虫が排泄したものがドロドロ状に固まったものである。朝になると潅木から落ちてくるので、象徴的に「天から降ってくる」と言われたのである。この「マナ」は、丸くて白く、壊れやすいもので、まるで露のようだった。

2006年7月20日 (木)

天之日矛(あめのひぼこ)

    天之日矛(天之日槍)。第11代垂仁天皇の3年3月に来朝したとされる新羅皇子。一説に朝鮮伝来の矛を人格化したものとも、あるいはこの矛をもったその人を指すのではないか、ともいわれる。また、伽耶王子ツヌガアラシトと同一人物とする有力な説がある。『新撰姓氏録』や『風土記』に末裔氏族の名がみられ、その代表的な一族が、田道間守(たじまもり)氏である。

司馬光

    司馬光(しばこう、1019~1086)。字は君実(くんじつ)、諡は文正。死後、温国公に封ぜられたので司馬温公ともいう。陝州夏県涑水(そくすい)郷の人である涑水先生ともいう。司馬光については有名な逸話がある。幼少のころ郡児と遊んでいたが、その一人が庭の大甕に登り、誤って足をすべらして水の中に沈んだとき、仲間はみな見捨てて逃げたが、光は石を取って甕を砕き、これを助けた。また七歳のとき、『左伝』の講釈を聞きかじり、その大旨を会得したという。光はのちに王安石の新法に反対したため、中央から退陣するが、編年体の歴史書『資治通鑑』を完成させる。(1084)

2006年7月19日 (水)

嵐が丘(エミリー・ブロンテ)

    「ワザリング・ハイツ(嵐が丘)」と呼ばれる名家アーンショオ家の当主は早く夫人を失い、12歳のヒンドリイと9歳のキャサリンの二人の子どもの成長を楽しみにしていた。ある日、 アーンショオ氏は町で浮浪児を拾ってきて、ヒースクリフと名づけて養子にした。

    ヒンドリイは兄となったヒースクリフを憎悪し、ことごとに冷たい態度を示したが、妹のキャサリンだけは暖かい好意を見せるのだった。幼いふたりはヒースの生い茂る野を歩いたり岩山で遊んだり、楽しい日々を過ごす。しかし、養父の死によってこの楽しさも終わりを告げる。ヒースクリフは、息子のヒンドリイに虐待されて、下僕の身分に落とされ、熱愛していた妹娘のキャサリンにも、「ヒースクリフと結婚するのは、あたしの落ちぶれることだもの」と裏切られ、絶望して家出する。

   そして三年後、南米で事業に成功した彼は「嵐が丘」に戻ってきた。そこから、彼の狂人じみた復讐が展開される。

    キャサリンの嫁ぎ先であるリントン家には、イザベラという娘がいた。ヒースクリフはイザベラを誘惑して結婚する。その一方、多くの負債を背負ったヒンドリイの借財を買い取り、「嵐が丘」の新しい主人におさまった。偽りの結婚をしたヒースクリフだが、年を経ても今もなお愛する人はただひとり、キャサリンだった。そのキャサリンもいまや、病の床にある。キャサリンが死んだのち、ヒースクリフは自分とイザベラとの間に生まれたリントン・ヒースクリフとキャサリンの忘れ形見のキャシー・リントンを結婚させて、リントン家を乗っとろうとする。だがリントン・ヒースクリフはまもなく死に、また、アーンショオ家とリントン家を没落させる企てが失敗してみると、ヒースクリフは、しだいにその恨みと仕返しの根性が弱まってしまう。そして、キャサリンの思い出が苦しみとなって、ヒースクリフはついに自殺する。

    ヒースクリフがキャサリンに対して狂気のように激しい愛情の火を燃やしながら、ついにこの世では愛を成就させることができず、二人ともども隣合った墓で長い眠りにつく。そして、愛と憎しみと暴力の丘は、もとの平和と静けさとをとりもどす。Wuthering Heights

2006年7月17日 (月)

釧路と石川啄木

   石川啄木(23歳)は窮乏のため家族を小樽に残して、釧路新聞社に入社する。釧路新聞社長の白石義郎と国鉄釧路駅に着いたのは明治41年1月21日の夜だった。

   さいはての駅に下り立ち

   雪あかり

   さびしき町にあゆみ入りにき

    (『一握の砂』所収、初出『スバル』明治43年11月号)

   啄木日記によると、「九時半此釧路に着。停車場から十町許り、迎えに来た佐藤国司(釧路新聞社理事)らと共に歩いて、幣舞橋(ぬさまいばし)といふ橋を渡った。浦見町の佐藤氏宅に着いて、行李を下す。秋元町長、木下成太郎(道会議員)の諸氏が見えて十二時過ぐる迄小宴」と記入されている。

   啄木が釧路駅に下り立つた時、駅周辺は草ぼうぼうとしてひっそりしていたが、当時の釧路は港町として栄え、松前藩に属していた時から鰊漁場として有名だった。釧路港は木材・硫黄・昆布等の輸出で賑わい、安田鉱業の春採炭鉱の竪杭が開かれ、富士製紙の工場やマッチの軸木工場が創業される等、町全体は活気を呈していた。当時の人口は一万二千。釧路築港が決定したのは明治42年であり、当時の釧路は函館や小樽ほどの賑わいはなくても港町としてそれ相当の賑わいをみせていた。

   啄木は明治41年4月釧路を去り、東京に出て創作的生活に入るが、あるとき、釧路時代を懐かしく思い出し、釧路を美化するつもりでこの一首をつくり「さいはての駅」と歌ったのである。

プラトンのイデア論

   イデア(idea) 元来は見えているもの、姿、形の意。プラトンにおいては、理想のみによって把握される事物の本質、価値あるものごとの理想的な形を意味する。感覚でとらえられる個物は完全でないし変化を免れ得ない。これに対し、イデアは非物質的で永遠不変な真実の実在と考えられる。たとえば現実のうつろいゆく美しいものに対して、美のイデアとはそれを美たらしめている美そのもののことである。また現象界の個物はイデアの模像であり、イデアを分有すると説かれる。

    プラトンは真の実在を感性でとらえ、現実の世界の個物には求めず、理性でのみとらえられる普遍的な本質、すなわちイデア論を展開した。このように現実の世界よりもイデアの世界を重視するプラトンの理想主義的な傾向はプラトン主義とも呼ばれて、後世に大きな影響を与えた。

つる女房

   川のほとりに金蔵という若者がいて、山から薪を切ってきては町で売って暮らしていた。ある日、町からの帰り道に山を通ると、子どもたちが鶴の足に縄をかけて遊んでいたので、薪を売った金でその鶴を買いとって逃がしてやった。

    その晩、金がないから葉っぱ汁でも食べて寝ようと思っていると、戸を叩くものがあり、道に迷ったので一晩泊めてくれと言う。それは美しい娘で、金蔵は驚きながらも招きいれた。翌朝、娘は両手をついて、「嫁にしてくれろ」と言うので嫁にすると、「それでは、ひとつ布を織るから、出来上がるまでのぞかないでおくやい。七日めの晩には、きっとお気に入りの布を作ってあげます」と言って部屋に閉じこもって機を織り始めた。

    七日めの晩に嫁は一反の布を金蔵の前に出して、「これを売って、欲しいものを買ってください。この布は五両には売れます」と言うので、金蔵がその布を町へもっていくと、旦那がびっくりして十両で買ってくれて、つぎは十五両で買ってくれると言った。金蔵は帰宅して嫁にむりやり織らせた。嫁は「ほんじゃ、出来上がるまではけっして見ないでおくやい」と言って織り始めた。

    金蔵は、そんなにめずらしい布をなんじょして織るもんだかと思うと、気が気でなくなって、こっそり節穴からのぞいてびっくりした。丸っ裸の鶴が自分の体から一本、また一本、毛を抜いて織っているんだど。「あっ」と声を立ててしまったもんだそうな。その晩おそく機の音が止んで、嫁が布を持って部屋から出てきたとおもったら、金蔵の前にぺたりと座って、「長い間お世話になり申した。じつは先日助けられた鶴で、恩返しに嫁になってきたが、正体を見られては、帰らんなね」というが早いか、鶴の姿になって、月の光の中を飛び立っていった。鶴が二回まわったところが鶴巻田といい、糸をとった川を織機川という。金蔵が出家して寺を建てたのが珍蔵寺で、その寺には鶴の織った曼荼羅が残っているという。(山形県置賜地方)

2006年7月16日 (日)

松下幸之助 「道」

自分には 自分に与えられた道がある

天与の尊い道がある

広い時もある せまい時もある

のぼりもあれば くだりもある

思案にあまる時もあろう

しかし心を定め 希望をもって歩むならば

必ず道はひらけてくる

深い喜びも そこから生まれてくる

2006年7月15日 (土)

狭き門

   早く父を失ったジェロームは、少年時代から夏休みになると叔父ビュコランのもとで過ごし、従妹のアリサにひそかに心を寄せていた。ある日、ビュコランの家に行くと、叔母リュシルが若い中尉とふざけていた。それを悲しんでいるアリサを見た瞬間、彼は自分の一生を決定したのであった。

   教会で「力を尽くして狭き門より入れ、滅びにいたる門は大きく、その路は広く、之より入る者はおほし、生命にいたる門は狭く、その路は細く、之を見出す者すくなし」という聖書の言葉を引用した牧師の説教を聞くや、彼はアリサにふさわしい人間になることが己の使命だと考える。

   アリサは、ただ沈黙を守っているだけで、ジェロームを避けるようになる。ジェロームが結婚してくれと頼むと、「二人は幸福のために生まれてきたのです」と言って、ジェロームを絶望させる。

   三年別れたあとで、ジェロームはアリサに会うが、彼女はすっかり変わっている。彼は彼女に愛情をこめて話をするが、「さようなら、今こそはじまるのです。もっともよいものが」と言って、ジェロームを木戸の外に押しやってしまう。それから1ヶ月してアリサは死ぬ。

   彼女の日記が残され、そのなかで彼女の痛ましい秘密が教えられる。アリサはジェロームを愛していたのだが、またいっぽうでは完全なキリスト教徒になろうとしており、そうした完全さというものは、愛に抵抗することによって、はじめてえられるものだと確信していたのである。そのうえアリサが求めていたのは、彼女自身の幸福よりも、むしろジェロームの幸福だった。というのは、ジェロームを自分から引き離すことによって、かれがただ一人で、聖書に語られている、あの二人並んでは入れない「狭き門」のほうへ進んで行くのを見たいと望んだのである。(アンドレ・ジイド、1909年)

民の竈はにぎはひにけり

高き屋に登りて見れば煙立つ

   民の竈(かまど)はにぎはひにけり

        (「新古今和歌集」仁徳天皇御歌)

   仁と徳との儒教の教えを身につけた仁徳天皇は、宮殿から難波の町を眺め、民の竈に煙がたたず、民貧しと仰せられて、租税を免じた。3年後ふたたび高殿に上って民の賑わいを喜んだ、という伝承を詠んだ後世の歌である。もともとの歌は延喜6年(906)の藤原時平の「高どのに登りて見れば天の下  四方(よも)に煙て今ぞ富みぬる」で、これが平安時代末期には改作されて仁徳天皇の御歌として伝えられたらしい。

2006年7月14日 (金)

上杉治憲(うえすぎはるのり)

   上杉治憲(1751~1822)。出羽国米沢藩主。鷹山(ようざん)と号す。藩財政の改革、殖産興業、新田開発、倹約の奨励、備荒貯蓄など治績大いにあがり、名君と称された。また細井平洲を用い、藩校興譲館を興した。殖産興業策として、養蚕業では絹織物の生産へと発展し、全国的な名産として知られる米沢織を生み出すきっかけとなった。

   受けつぎて国のつかさの身となれば 

                忘るまじきは民の父母

   なせばなるなさねばならぬ何事も 

               なさぬは人のなさぬなりけり

ボヴァリー夫人

   開業医のシャルル・ボヴァリーは年上の妻に先立たれた後、農場を経営するルオーの一人娘エマと結婚する。彼女は13歳のときから修道院で教育を受け、ダンスや地理や図画ができ、綴織もするしピアノも弾けた。そのような妻を持ったことで、シャルルはいよいよ鼻を高くした。だが、彼女はこの平穏な生活が自分の夢みていた幸福だとは、どうしても考えられなかった。

    エマはダンデルヴィリエ侯爵家の舞踏会に招待された。彼女はその舞踏会の追憶を日課の一つのように過ごし、再度の招待を待ち望んだが、期待ははずれた。エマは気むづかしく、気まぐれになった。やがて夫の配慮で、彼女は療養のために転地した。その地で公証人レオンと知り合う。

    レオンは彼女のどっちつかずの態度に、業をにやして去った。田舎貴族ロドルフとの情事、レオンとの再会、彼女の乱費は情事と並行してかさんでいった。万策つきて、ついにエマは自殺する。(ギュスターブ・フローベール 1856年)

2006年7月13日 (木)

若きウェルテルの悩み

   1771年5月、法律を専攻したウェルテルは、遺産に関する用件を処理するため、ある小さな町に来た。そこで彼は、官吏の娘で8人の弟妹たちの面倒をかいがいしくみるロッテと知り合い、心が惹かれていく。しかし、ロッテにはアルベルトという婚約者がいた。アルベルトが旅先から帰ると、ウェルテルは寛容なアルベルトに嫉妬し、この町を去る。のち、ある町の公使館に勤めた彼は公使とうまくいかず、さらにC伯爵家の夜会で不当な扱いを受けて辞職する。そして、心のふるさとを求めるようにロッテのもとに戻ると、彼女はすでに結婚をしていた。彼はロッテにオシアン(古代ケルト族の勇者で詩人)の詩を読み聞かせて、思わずロッテを抱擁した。その翌日、旅行用にとアルベルトから借りたピストルで、ウェルテルは自らの命を絶った。(ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ 19774年)

2006年7月10日 (月)

小成に安んじない

   川崎正蔵(かわさきしょうぞう 1837~1912)の少年時代、家産は傾き、父は死ぬという不運がかさなった。こうなると親戚などは不人情なもので、母子は情けない仕打ちに口惜し涙にくれる日が続いた。

   奮起した正蔵は17歳のとき、当時貿易の盛んだった長崎に行き、綿布の安いのに目をつけ、これを仕入れて鹿児島で売る商売を始めて、かなりの金をもうけることができた。

   母は「その金で、家を建て直し、不人情な親類を見返しておくれ」と言ったが、正蔵少年は「いま、家を建てれば、商売の資金がなくなってそれでおしまいです。それよりも、しばらく辛抱して、この金を商売に使い、大きくもうけたときこそ立派な家を建てましょう」と慰め、後日、その言葉を実現した。

    汽船会社副頭取として琉球航路を開設、沖縄の物産を特権的に販売、資本を蓄積した。明治11年、造船業に転じ明治20年、神戸に川崎造船所を設立、松方幸次郎を後継者に迎え、発展の基礎を固めた。

2006年7月 9日 (日)

ヨブの試練

   サタンは、世に名高い義人ヨブの敬虔が、神に祝福され富と子宝と健康を恵まれていることの結果にほかならず、もしこれらを失えば、ヨブは神を呪うようになると主張した。神はこのサタンに対し、ヨブを思いのままにする許可を与えた。このため、ヨブはまたたく間に全財産と子どもたちをなくし、そのうえ全身を腫れ物でおおわれて陶器の破片で身体を掻きながら灰の中に座るという、まさに悲惨の極の状態に陥った。

    しかし、このようにまったく不当としか思われぬひどい目にあっても、ヨブは「神を呪って死になさい」という妻をたしなめ、彼の苦難が罪の結果であるといって改悛を勧める友人たちに対してはひたすら潔白を主張しながら、神にこの不可解な事態の説明を求めた。やがて神は、旋風(つむじかぜ)の中からヨブに答え、神の働きがいかに人知を超絶したものであるかを懇切に説いて聞かせた。そしてヨブが、自分の無知を悟り、神の摂理を測ろうとした愚かさを悔いると、神は彼をめでたたえ、ヨブを非難した友人たちには厳しい叱責を加えて、神への取りなしをヨブに頼めと命令した。こののち、ヨブの財産は神によって以前に倍加され、もと通り子宝にも恵まれて、幸福のうちに長寿を全うできたという。

山上の垂訓

こころの貧しい人たちは、さいわいである。

      天国は彼らのものである。

悲しんでいる人たちは、さいわいである。

      彼らは慰められるであろう。

義に飢えかわいている人たちは、さいわいである。

       彼らは飽き足りるようになるであろう。

平和をつくり出す人たちは、さいわいである。

       彼らは神の子と呼ばれるであろう。

義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである。  

   天国は彼らのものである。

頼三樹三郎と安政の大獄

    頼三樹三郎(1825~1859)は、父祖以来の家風(父は頼山陽、祖父が頼春水)が「尊王攘夷・王政復古」にあるとし、朝廷に逆らう者は「賊臣」であるという意識が彼の中には強くあった。彼は、幕府を牽制するため、水戸藩に勅許が下るように公卿間を周旋し、井伊直弼の打倒計画に加わった。それに対し、井伊大老は尊王派の公卿・大名・志士らfy反対派を弾圧するという、いわゆる安政の大獄を起こした。頼三樹三郎は、梅田雲浜・梁川星巌・池内大学と共に、幕府に対する「反逆之四天王」とされ、安政5年(1858年)11月、捕縛された。評定所の取調べを経て死罪を命じられ、三樹三郎は伝馬町の獄で斬首された。享年35歳。

書写山円教寺

   円教寺(えんぎょうじ)は標高371mの書写山(しょしゃざん)山頂にあり、康保3年(966年)、性空上人(しょうくうしょうにん)によって開かれた天台宗三大道場の一つである。書写山と号する。豪壮・雄大な寺観から、「西国の比叡山」ともよばれる。

   本尊は如意輪観音で、西国三十三所霊場第27番札所。姫路城主であった本多家5代の廟所。やはり城主であった榊原政房(まさふさ)、政祐(まさすけ)の霊廟がある。

三木城と別所長治

   三木城は別名釜山城(かまやまじょう)ともいう。明応元年(1492年)に別所則治(べつしょのりはる)が釜山城を大修築したのが三木城のはじまりである。ただ三木城の名は、羽柴秀吉による「三木の干殺し」(みきのひごろし)として、戦国史上有名になった。

   天正5年になると毛利勢が播磨への侵略をはじめたので、織田信長は羽柴秀吉を総指揮官に任命して中国経略にのりだした。秀吉は姫路城を居城として、いよいよ中国進撃を開始しようとしたところ、東播磨に勢力をもっていた三木城の別所長治が毛利氏とつうじて信長に反旗を翻したために、秀吉はまず三木氏を討つべく書写山円教寺を陣所とした。

    秀吉は、三木城の包囲を足かけ3年つづけ、城方の糧道を遮断する。そこで、別所長治は、やむなく城兵の助命を条件に自刃、開城した。その後、別所氏に味方していた魚住城・高砂城・御着城もそれと前後して陥落した。天正8年(1580年)のことである。

   現在も三木城跡には、空井戸と、別所長治の辞世の歌碑がある。

   「今はただ恨みもあらじ諸人の 命にかわる我身と思えば」

2006年7月 7日 (金)

安藤昌益

    安藤昌益(1703~1762)は、秋田県大館市の二井田(にいだ)村で生まれた。14~15歳頃仏門に入り、30歳前後で印可を受けたらしい。その後、宗門から離脱して京都で修行して医者になる。その後、1744年、青森県八戸に居住(42歳)。1754年に『自然真営道』を著す(52歳)。昌益は、「自然の世」(しぜんのよ)こそ理想の社会であり、すべての人が自然の理法の中で正しく働き、必要な産物を自ら生産して生活し、貧富も上下の支配関係もない、平等な社会を説いた。このような昌益の封建批判の進歩的思想が、明治になって狩野亨吉により紹介されたが、近年は昌益のエコロジー(生態学)的発想が注目されている。

    参考文献:『忘れられた思想家 安藤昌益のこと』E.H.ノーマン 岩波新書 1950、『安藤昌益全集』 全21巻別巻1 農文協 1982、『写真集 人間安藤昌益』 農文協 1986

2006年7月 3日 (月)

「し」の字

    三条の成田屋は日ごろ良寛と親しかった。ある時、成田屋が、生涯の宝となるようなものを書いてほしいと依頼した。すると、良寛は全紙に「し」の字を書いた。成田屋がけげんな顔をして、

「これはどういう意味ですか」

とたずねると、和尚いわく、

「゛し" は死ぬことじゃ。人は死ぬことさえ忘れねば大した過もなかろう」

(『禅門逸話選』禅文化研究所)

福沢諭吉、英語を独学する

    安政5(1858)年、25歳の福沢諭吉は、藩の命令で江戸にでて、築地に蘭学塾をひらいた。ある時、彼は横浜に、自分のオランダ語が通じるかどうか、ためしに出かけた。その頃の横浜には、幕府が開港していたため、たくさんの外国人がやってきていた。結果は、諭吉のオランダ語はまったく通じなかった。というのも、話している外国語も、外国語の看板も、ほとんど英語だったからだ。これからの時代は英語を学ぶ必要を痛感した諭吉は、日本語に訳した辞書がないので、英語とオランダ語を対訳した辞書を使い、英語を独学した。

    その後、諭吉は3度海外旅行に行った。第1回は、1860年、咸臨丸でアメリカへ。第2回は、1861年、イギリスなどのヨーロッパへ。第3回は、1867年、アメリカへ。この3度の渡航経験で、西洋の文化を見聞した諭吉は、慶応義塾を開校し、「天は人のうえに人をつくらず、人の下に人をつくらず」という文章で有名な『学問のすすめ』などの本をあらわし、日本の近代化に尽くした。

ヨーロッパの都ウィーンの城壁

   ウィーンは、ローマ時代にドナウ河畔に建設された都市である。ドナウ川の河川交通によって、黒海やバルカン半島との結びつきも強く、スラブ世界に対するゲルマン世界の接点の都市でもある。15世紀半ば以降、神聖ローマ皇帝の帝位を独占したハプスブルク家の支配下におかれ、ドイツばかりでなく、ヨーロッパの中心となった。

 

   16世紀、神聖ローマ帝国カール5世は、スペイン国王も兼任し、ヨーロッパに強大な権力を誇った。これに対抗したフランス王フランソワ1世は形勢不利となり、オスマン帝国のスルタン、スレイマン大帝に支援を要請した。地中海進出をねらい、スペインと対立していたスルタンは、この要請をうけた。

 

   スレイマン大帝は、ウィーンを攻略すべく、バルカン半島を北上し、ハンガリーを征服して、1529年にはウィーンを包囲した。大口径の攻城砲をもち、バルカン諸国の捕虜兵士も動員したオスマンの大軍は、長い幾筋ものジグザグの濠を掘って城壁に迫っていった。防衛側は城壁が壊される前に、内側に新たな城壁をつくりあげた。この作業にウィーンの住民は子供にいたるまで動員された。冬の到来により包囲はとかれ、オスマン軍はひきあげた。

 

   このウィーン包囲は、神聖ローマ皇帝の権力を低下させ、帝国内に発生したルターの宗教改革との妥協を余儀なくさせ、プロテスタントの成立をうながすという効果も生んだ。また、スペインとの間に、地中海の覇権をめぐる海戦も行われた。

 

   フランスは、オスマン帝国内での交易を保護され、カピトゥレーションという貿易特権をスルタンから授与された。のちにヨーロッパ列強は、彼らに与えられたカピトゥレーションを口実にしだいにオスマン帝国を侵略した。これは、19世紀に中国や日本に強要した不平等条約の原型である。フランスは同時に、イェルサレムの聖地管理権も与えられた。

 

   オスマン帝国は17世紀末(1683年)、再びウィーンを包囲したが、ポーランド国王ヤン3世(ヤン・ソビェスキ)に撃退された。

2006年7月 2日 (日)

国木田独歩の女性観

    国木田独歩と佐々城信子との恋愛と失恋の経験は、独歩の生涯の上に重要な位置を占める。信子は独歩の熱情にひかれ、親たちの反対をおしきって、貧しい独歩と結婚した。そして逗子に新居をかまえた。しかし富裕な家庭に育った彼女には、あまりにも理想とかけはなれた現実が耐えがたく、妊娠したことも夫には明かさずに失踪した。彼女をふかく愛していた独歩は、彼女の行方をさがし歩き、ついに発見してもとに戻ることを懇願したが、彼女は聞かなかった。独歩は自分の側の無資格や、悪条件にどうしても気づかなかった。以後彼は女性を禽獣視するに至った。もともとはロマンチストでフェミニストであった彼は、この苦い経験から、次のような女性観を抱くようになった。

「女は禽獣なり。人間の真似をして活く。女を人類に分類せるのは旧き動物学者の謬見なり。あらゆる女はその汚なき夢を覆はんが為に美しき恋物語を喜ぶ。渠(かれ)は自らの汚穢に堪へざるなり。」

「女にて余の小説を解し、余の小説を耽読する者甚だ少なしと云ふ。有難いこと哉。余も亦そを欲せず、渠等(かれら)にして余の小説を読まば、夜会服に盛装せる渠等の前に、恐らく裸体の写真を突付けられたる心地やせん。これ吾が姿なりし云ひ得るに苦しむべし。」

    実際に独歩の作品に登場する女性に理想的な佳人はほとんど見えず、その描写や扱い方は現実的であり、時にいやらしく肉感的であった。

パリのアンタン街での競売会

    私がこの哀しい物語に激しく胸を打たれて、ぜひ本に書き残そうと決心したのは、パリのアンタン街で、家具類やぜいたくな骨董品の競売会がある旨の一枚の貼り紙を見たのがきっかけだった。この競売は、持ち主である女主人が死んだので行われるのだった。私は根が骨董好きなだけに、この機会をのがさず、買わないまでも、せめて見るだけは見ようと思い出かけて行った。

   表門のところまで来ると、すでに物見高い客でいっぱいだった。邸内の部屋には、すばらしい家財道具や骨董品が並べられていた。バラ材やブール細工の家具、セーヴル焼きやシナ焼きの花瓶、サクソン焼きの陶器人形、しゅす、びろうど、レース、金銀宝石類、化粧品など、なにからなにまでそろっていた。私はこれらの品々をじっと眺めまわした。どれもこれも哀れな女の賤業をしのばせるものばかりだった。そして私は心ひそかに、この女に対する神の慈悲を思った。なぜなら、神はこの女を世の常のこらしめの時の来るまで生きながらえさせずに、娼婦にとっては第一の死ともいえるあの老齢にまで達しないうちに、栄華と美しさのなかで死なせたもうたからである。

 

「ちょっとおたずねしますが、ここに住んでおられた方はなんとおっしゃるんですか?」

 

「マルグリット・ゴーチェさんです」

 

   私はこの人なら名前も知っていたし、またシャンゼリゼでよく姿を見かけたことを思い出した。彼女は必ず毎日、すばらしい二頭の栗毛の馬にひかせた小形の青い箱馬車に乗ってやってきた。そして私は、彼女がああいったたぐいの女性にはまれな一種の気品を持っていたことに気づいたものだった。またこの気品は、比類ない美しさによっていっそう引き立てられていた。

 

「彼女が亡くなったんですって?」「そうです」

 

「いつのことです、それは?」「たしか三週間ばかり前です」

 

「それも あなた肺病でね。みじめな死に方だったとか・・・・」

 

「しかし、競売とはね」「大変な借金があったらしいから」

 

「生前はパトロンにかこまれて派手な生活をしていのに」

 

「どうせそんなもんさ。所詮は卑しい娼婦なんだから」

 

私は足早にその場を離れた。

 

   生前パリでは知らぬ者のないほど美しく輝いていたマルグリット・ゴーチェ。気品ある大きな瞳、長いまつ毛がビロードの桃のような肌にうっすらと影を落とし、微笑めば真珠の歯がキラリとのぞいて、一目見た人を魅了させる。彼女の側にはいつも青年貴族たちがかしずくように従っていてパリの夜を飾っていた。私は今でもよく覚えている。彼女の側にはいつも椿(カメリア)の花束があった。もちろん私は彼女とは言葉を交わしたことは一度もない。

 

   競売は故人の邸の客間で行われた。無責任で物好きな連中のざわめき。誰一人マルグリットの死を哀しんでいる者はなかった。衣装、カシミアのショール、宝石などは、まるで羽が生えたように売り切れてしまった。そうしたものは、私に用のないものだから、帰ろうとしたが、突然の競売人の大声に足をとめた。

 

「書物一冊、製本とびきり上等。天金。表題は、マノン・レスコー。扉になにか書き入れがあります。まず10フランから!!」

 

「12フラン」と、かなり長いあいだ沈黙がつづいた後だれかが叫んだ。私は思わず「15フラン」と言った。「30フラン」挑戦的な声がどなった。「35フラン」「40フラン」「50フラン」と競争が続いた。

 

「100フランだ!!」

 

書物は結局、私の手に落ちた。私はその高価な「マノン・レスコー」を手にしてページを開けた。扉に何か書き入れがあった。

 

「マノンをマルグリットに贈る。慎み深くあれ。」

 

そしてそのあとにアルマン・デュヴァールと署名してあった。

 

   『マノン・レスコー』は哀切きわまりない物語である。私は、この物語のどんな些細な部分も覚えているが、この本を手に取るたびに、いつも同感をそそられてページをひらき、そして幾度読んでもつねに、作者アベ・プレヴォの女主人公とともにある思いがするのだった。実際この女主人公は、まるで私が現実に知っていた女のような気がするほどに真実性を持っていた。マノンやマルグリットを思うにつけても、思い出されるてくるのは、私が知っていた女たち、いつも歌を口ずさみながら、ほとんど同じような死の道をたどっていった女たちのことだった。哀れな女たちよ!! もしも彼女たちを愛してやることが悪いというのなら、せめて憐れんでやってほしい。母でもなく、妹でもなく、娘でもなく、また人妻でもない女、そういった女をさげすまないようにしよう。家庭に対してはもっと尊敬の念を抱き、利己主義に対してはもっと寛大な目で接してやろう。神は、かつて一度も罪を犯したこともない百人の正しい人々よりも、ひとりの罪人の悔い改めたのを喜びたもうものであるから、われわれは神をお喜ばせするようつとめようではないか。そうすれば、神は必ずやわれわれにあたってあつく報いたもうであろう。地上の煩悩のために身を持ちくずしはしたものの、神にすがりさえすれば救われるような人々に対しては、つとめて寛大な気持ちでいよう。(『椿姫』第1話)

 

 

 

 

 

 

2006年7月 1日 (土)

武者小路実篤の愛の詩

    武者小路実篤には、多数の詩がある。ことに晩年には愛に関するエッセイ、詩などブームのように出版された時期がある。ここでは「若い泉の会」(代表・中山秀峰)が編集した『愛ただひとつの言葉』(1969年)の中から一編を選び紹介する。

 

      愛

人間のなかに愛がある。

何かを愛する。

不滅なものを愛する。

宇宙をつらぬく 法則を愛する。

生命を愛する 調和を愛する。

人間の心に生まれる 美を愛する。

愛する 愛する すべて愛し得るものを。

そしてそのために働いてゆく。愉快なことじゃないか。

愛する男の人の 仕事をたすけてゆく 女の美しさ。

愛する子供を 立派に育てゆく 親の美しさ。

愛する仕事のために 全身全力をつくす。

男の美しさ。

ひとりよりもふたりが良い

わたしは改めて、太陽の下に空しいことがあるのを見た。ひとりの男があった。友も息子も兄弟もない。際限もなく労苦し、彼の目は冨に飽くことがない。「自分の魂に快(こころよ)いものを欠いてまで、誰のために労苦するのか」と思いもしない。これまた空しく、不幸なことだ。

ひとりよりもふたりが良い。共に労苦すれば、その報いは良い。倒れれば、ひとりがその友を助け起こす。倒れても起こしてくれる友のない人は不幸だ。更に、ふたりで寝れば暖かいが、ひとりでどうして暖まれようか。(旧約聖書 コヘレトの言葉4章7~11節)

« 2006年6月 | トップページ | 2006年8月 »

最近のトラックバック

2024年11月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30