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2006年6月 9日 (金)

論理によって納得できるか

石原武政の「論理によって納得できるか」(書斎の窓2006年6月№555)を読む。著者は長年にわたり論理学を学び、論理をもって考え、論理をもって議論し、論理をもって人を説明する、理屈屋を自認している。だが論理によってすべて相手を納得できるものではないことに気づいた。理屈ぬきで納得できることもある。感覚的にしつくりこなければ収まりがつかない。感覚の論理化をめざしているらしい。著者はそのことを囲碁でもって説明する。わたしは囲碁はしたことがないので説明にはあまりピンとこない。だが論理と感覚の説明で、ふと遠いむかしのことを思い出した。若い頃昼間は図書館で働き、夜間は大学に行っていた。大学の先生は東洋法制史が専門で古代の木簡、たとえば居延漢簡などを研究していた。そのことを館長に話すと二人は昭和20年代に三田の高校でともに教師をしていたころの仲間だという。そこでわたしが契機になって2人は20年ぶりで再会した。館長は趣味の域をはるかに超えた有名な前衛書道家だった。(後年アメリカで前衛書の普及活動をしている)前衛書の作品の多くは見ても何という文字であるか判読できない。わたしは「前衛芸術はわかりません」と率直にいうと館長は「わかろうとせずに感じればいいんだ」という。あるとき「書道辞典」という大著が刊行された。この本には法帖だけでなく近年中国で多数出土した木簡の項目もあったので先生にみせた。先生の話では「書道家の釈文には文字の誤読が多いという。おそらく前後の文章の脈絡や資料の歴史的な背景をあまり考慮していないからだろう。木簡はこれまでの史記・漢書などの文献資料の不足を補う新たな同時代の記録・文書なので文字を判読し正しい意味を知ることが大切である。」と。つまり同じ文字を見ても、書道家は感覚的に美を感ずる、歴史家は文字を判読し論理的に歴史的体系化として構築するのが究極の目的なのだ。その両者の相違は平行線であり、「論理と感覚の一体化」とは永遠に不可能なことなのだと若い頃感じたものである。

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