スラボフィールとザパドニキ
1830年から1870年にかけてロシア国内では、スラボフィールとザパド二キの対立があり、ロシアのインテリゲンチアはこれら両者のいずれかに所属していた。スラボフィール(スラヴ主義者)は、ロシア文化とギリシア正教の優秀性を強調して、西欧化に反対した。他方では、理想主義的デモクラシーを説き、農村に自由を見出した国粋主義者たちで、汎スラヴ主義に接近した。
ザパドニキ(西欧主義者)は、農奴制の廃止を叫び、人間生活の合理的再建を主張した。目標とするところは、西欧的な議会政治と資本主義体制、個性の解放であった。しかしゲルツェンも西欧への幻滅からミール制を基にした社会主義を主張するようになる。
1870年代にはミハイロフスキーら若い運動家は「人民の中へ」(ヴ・ナロード)をスローガンに農村へ出向き、ミールを基礎とする社会主義の実現化を目指す革命的急進主義ナロードニキが生まれる。
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