バッカイタラ
アイヌがこどもを背負うときに使う編み紐、バッカイは子をおぶう、タラは編み紐を意味している。紐の両端に近いところに、短い木の棒をわたしてしばったもの。背負う者が着ている着物の中でこどもを背負い、着物の外側からバッカイタラの木の棒に、こどもの尻をのせる。紐の中央部分を背負う者の額にかけて、紐の両端は前にまわしてしばる。イェォマブという地方もある。(参考:萱野茂『アイヌの民具』1978)
アイヌがこどもを背負うときに使う編み紐、バッカイは子をおぶう、タラは編み紐を意味している。紐の両端に近いところに、短い木の棒をわたしてしばったもの。背負う者が着ている着物の中でこどもを背負い、着物の外側からバッカイタラの木の棒に、こどもの尻をのせる。紐の中央部分を背負う者の額にかけて、紐の両端は前にまわしてしばる。イェォマブという地方もある。(参考:萱野茂『アイヌの民具』1978)
「映画の友」昭和31年9月号を読む。表紙はマリリン・モンロー。記事は淀川長治「エリア・カザンはじめてのシネマスコープ色彩映画 エデンの東」を紹介。しかしこの時まだ淀川は試写を見ていない。
小森和子の「このところお賑やかな新入生教室 その名を覚えるのが困難なほど新型ぞくぞくと登場、さて、貴方の最新型のごひいきは誰?」という記事がそそられる。「実生活ではいろいろとお差支えも生じましょうが、映画の上でなら浮気もお好きな放題、どうぞご迷惑も税金のかかりようもありません。そこで、うだるような今日このごろのつれづれに、居ながらにして多情仏心の楽しさわ味わうのも鎖夏の一策。今月は私も夏休みをいただいてせめてそのご案内役なとつとめましょう。ここにご紹介します面々は、いずれも近き将来にスターダムにのしあがらんとする新人たち」「ところでうち見たところ、ズバ抜けた美男美女といえるほどの人はいませんね。しかし、みなそれぞれにひとくせもあり、心惹くものを持っています。これがいわゆる個性的魅力というものではないでしょうか」といい、先ずトップがなんと、アーネスト・ボーグナインだ。(ただし写真なし)アルド・レイ、ウィリアム・キャンベル、ベン・クーパー、ラス・タンブリンとつづいて、ジェームズ・ディーンが登場する。「まだ本もの(映画で)にはお目にかかりませんが興味シンシンなのはエデンの東のジェームズ・ディーン。前評判は二代目マーロン・ブロンドとのことですがモンティ・クリフト的なものが感じられます。5尺10寸に155ポンドというきゃしゃな体つきとなにか物憂そうな眼つきがそう想わせるのでしょうか。早くから母を失いインディアナ州フェアモントの叔父の農場で育ったというこの若者には今からいとおしさが感じられてなりません」小森のおばちゃは、すでに映画を見ずして、ジミーに「ビビビ・・・」と感じたのだ。
友に交わるにはすべからく三分の侠気を帯ぶべし。
人となるには一点の素心を存するを要す。
『菜根譚』の著者・洪自誠(こうじせい)については、明の万暦年間の人で、名を応明、号を還初道人といったというだけで、それ以外のことはいっさい判らない。
(通釈)侠気を持たないものには友との交わりはできない。純粋な気持ちをすっかり失ってしまっては人としての成長は望めない。(参考:『菜根譚』神子佩・吉田豊訳 徳間書店)
ある僧が、趙州従諗(じょうしゅうじゅうしん)に尋ねた。
「犬のようなものにも、仏の性質はありますか」
「ない」
「なぜないのですか」
「自分に仏の性質があることを知らないからだ」
( 『無門関』第1則 『従容録』第18則)
春秋時代の楚の大夫。伍子胥と親しかったが、伍子胥が呉に亡命するにさいし、「必ず楚を倒す」と言ったのに対し、申包胥 は「必ず守ってみせる」と答えた。やがて伍子胥は呉軍とともに楚都に入城、楚の平王の墓をあばいて屍に鞭うった。申包胥は伍子胥に手紙を送って、その行為をなじり、いっぽう、みずから秦におもむいて援助を乞い、七日七晩泣きつづけて、ようやく秦の哀公の心を動かし、その援助によって呉軍を破った。(参考:『史記小事典』徳間書店)
徳川川吉宗の意をうけた井沢弥惣兵衛(いざわやそべい)は、武蔵野国の見沼干拓(さいたま市)のため見沼代用水を完成させると、周辺の村と江戸を水運で結ぶため、用水路と排水路をつなぐ見沼通船堀の開削に着手。用水路と排水路には3mの落差があるため水門を設けて水位を調節し、船をさかのぼらせる工夫がされた。1731年、こうして日本最古の閘門式運河が誕生した。(参考:『図説日本史』東京書籍)
晏子(名は嬰)は斉の国の総理大臣でしたが、きわめて倹約にして、ひたすら国政に励んだので、非常に重んぜられました。その倹約ぶりといったら、着物といっては、狐の皮衣一枚きりで、それを30年も着通しました。また家の祭りをするにしても、それに使う豚の肩肉はほんのわずかで、たかつきに一杯になるほどはありませんでした。けれども、一方、他人にはきわめて恵み深くて、斉の国の人で、彼の世話になって暮らしをたてている家族が70あまりもありました。(参考:細田三喜夫『漢文故事小事典』)
イタリア中部の丘陵地帯のチォチャリア。ある日、一人の若者が復員してきた。彼はフランチェスコといい、戦前は羊飼いだったが、彼の以前所有していた羊は今では村のボスであるアゴスティーノに盗まれていた。フランチェスコはこの事件を訴えたくとも証人がアゴスティーノに脅迫され沈黙しているのでどうすることもできなかった。そのわずかな証人の中にはフランチェスコのかつての恋人リチアもいた。彼女は今でも彼を愛していたが両親のためには好きでもないアゴスティーノの婚約者にならなければならなかった。
その婚約披露の晩、フランチェスコは妹のマリアを連れて自分たちの羊の群を取り戻しリチアと一緒に逃げようとアゴスティーノの家を襲った。だが家の外で逃げ遅れたマリアはアゴスティーノに掴まって暴行を受けてしまった。
翌朝フランチェスコは窃盗のかどで逮捕され、間もなく開かれた裁判はことごとく彼に不利なものであった。フランチェスコが投獄されてもなお、アゴスティーノは満足せず、貪欲な彼は高い地代で羊飼たちに牧場を貸そうと、この地一帯の牧場を手に入れることに成功した。このことは、彼に対する反感を一層はげしくした。
一方、監獄を脱走して山に逃げ込んだフランチェスコは妹のマリアの復讐のためにアゴスティーノの間隙を狙っていた。それを知ったルチアは矢も盾もたまらずフランチェスコの隠れている山へ走った。彼はルチアと手を携えて警官隊の包囲を逃れアゴスティーノの家へ向かった。
いち早くフランチェスコを見つけたアゴスティーノは機銃をとって発射した。フランチェスコはかすり傷を負った。既にアゴスティーノに犯され行く処もなく彼の家にいたマリアはアゴスティーノと逃げた。恐怖に襲われた彼は、羊飼たちに助けを求めた。しかしすべての家の戸は閉められていた。気狂いのように逃げまどう彼は逆上のあまり怒りをマリアに向けてついに彼女を絞殺した。
マリアの屍体を発見して激怒した羊飼たちはアゴスティーノの逃げ道をすべて封じた。フランチェスコは死にもの狂いで機銃を撃ってくるアゴスティーノに一歩一歩と近づいていった。やがて、弾丸を射ちつくして崖ぎわまで追いつめられたアゴスティーノは足をふみはずして、まっさかさまに谷底へ落ちていった。今は復讐を終えたフランチェスコは駆けつけた警官隊に潔く両手を差し出すのであった。(イタリア映画 1950年)
ルイ16世は1792年8月に錠前師ガマンを招いて壁に秘密棚をつくらせた。その帰途ガマンは激しい腹痛を覚え、はかられたと思って密告した。その棚から押収された書類で王とミラボー、ラファイエットとの内通関係がばれ世論は王に不利となった。
アイザック・アシモフの『雑学コレクション』によると、「旧約聖書は二千年にわたる歴史だが、そのなかの人名はみなちがう。息子に、父や祖先の名をつけるといった重複はない」とある。
イエス、ヨセフ、ゼルバベル、エルヤキム(ヨヤキム)、ヨシア、ソロモン、ダビデ、エッサイ、ユダ、モーセ、アロン、ミリアム、アムラト、ケハト、レビ、ガド、アシュル、ルベン、イサカル、シメオン、セブルン、ディナ、ヨセフ、ベニヤミン、ダン、ナフタリ、ヤコブ、イサク、アブラム(アブラハム)、イシュマエル、エサウ、モアブ、ベン・アミ、ロト、イスカ、ハラン、アブラム(アブラハム)、テラ(アザール)、ペレグ、ヨクタン、エベル、シェラ、アルバクシャド、エラム、アシュル、ルド、アラム、セム、ハム、クシュ、ミツライム、ブト、カナン、ヤフェト、ノア、セト、アベル、カイン、アダム
主要人名を並べたが、旧約聖書に記されたイエスの系統は、イエスからダビデへ、ヤコブからアブラハムへ、アダムへと収斂する。
戦国時代、燕の昭王は、賢者を求めるのに熱心であった。ある日、昭王は宰相郭隗に、どうしたら国を興すに足る人材を得られるか訪ねた。すると、郭隗は答えた。
「昔、千金をもって千里の馬を求めましたが、三年経ても手に入りません。するとある者が、『私が手に入れましょう』というので、その者に頼んだところ、千里の馬の骨を五百金で買って帰りました。君主が怒りますと、『世間では、死んだ馬でも五百金で買うくらいだから、生きている馬ならどんなに高く買うだろうと人は思います。そのうちにお望みがかないます」と申しました。はたせるかな、一年もたたぬうちに、千里の馬が三頭も手に入ったということです。いま王が、まことに賢才をお求めになるのでしたら、まず私に師としての礼をおとりなさいませ。隗ですらあんなに厚く遇せられるということになれば、私よりすぐれた人物が、千里を遠しとせずに集まることでしょう」
そこで昭王は、郭隗のために宮殿を新築して、これに師事した。すると、言葉通り、天下の賢士が争って燕に赴いた。(参考:村松暎『新版・十八史略物語 2』河出書房新社 1961)
1830年から1870年にかけてロシア国内では、スラボフィールとザパド二キの対立があり、ロシアのインテリゲンチアはこれら両者のいずれかに所属していた。スラボフィール(スラヴ主義者)は、ロシア文化とギリシア正教の優秀性を強調して、西欧化に反対した。他方では、理想主義的デモクラシーを説き、農村に自由を見出した国粋主義者たちで、汎スラヴ主義に接近した。
ザパドニキ(西欧主義者)は、農奴制の廃止を叫び、人間生活の合理的再建を主張した。目標とするところは、西欧的な議会政治と資本主義体制、個性の解放であった。しかしゲルツェンも西欧への幻滅からミール制を基にした社会主義を主張するようになる。
1870年代にはミハイロフスキーら若い運動家は「人民の中へ」(ヴ・ナロード)をスローガンに農村へ出向き、ミールを基礎とする社会主義の実現化を目指す革命的急進主義ナロードニキが生まれる。
春秋時代に、西施という美人がいました。この美人は、のちに呉の夫差という王様に寵愛された人ですが、まだ郷里の村にいた頃のことです。
ある日、胸が痛んだので、家で眉をしかめておりました。ところが、それが日ごろにもまして美しく見えました。すると、それを見た村の醜婦たちは、眉をしかめると美しく見えるのだと思って、わが家に帰ると、自分たちも胸をかかえ眉をしかめて歩きまわりました。ところが、美しく見えるどころか、普段よりも醜く見えて、いや、もう、二目と見られぬ顔になりました。そこで、村の金持ちたちは、堅く門をしめて、一歩も外へ出ませんでした。また、貧乏人たちも、妻子を連れて、逃げ出しました。(参考:細田三喜夫『漢文故事小事典』研究社 1956年)
スペイン人の聖職者ラス・カサスは、16世紀前半に中米でキリスト教の布教をおこなったが、聖戦の名を借りたインディオ虐待に批判の目を向け、『インディアスの破壊についての簡潔な報告』を著した。この書は、インディオ虐待の実態を報告し、征服戦争中止を訴える内容であったが、西洋諸国による反スペイン運動に利用された。しかし、彼のインディオ擁護運動は、後のラテンアメリカ独立運動に大きな影響を与えた。
春秋時代に、尾生という若者がいた。ある日、女と橋の下で会う約束をして、先に行って待っていた。ところが、いつまで待っても、女は来ない。それでも、尾生は、約束してあるのだから来ないはずはないだろうと思って、なおも待ちつづけた。そのうちに、水が出てきた。それでも、なお、女を信じて、帰ろうとはしなかった。やがて、ますます、水が出てきた。すると、流されないように、橋の柱につかまって、待っていた。そのうちに、とうとう、尾生は溺れ死んでしまった。(参考:細田三喜夫「漢文故事小事典」研究社 1956年)
アレクサンダー大王がギリシアを征服してコリントにやって来た。大勢の有力者たちがごきげんをうかがいにやって来たが、有名な哲学者のデイオゲネスはやって来なかった。そこで大王はみずから会いに行った。ディオゲネスは横になって日向ぼっこをしていた。大王は哲学者のそばにあゆみ寄って名のった。「余は大王アレクサンダーであるぞ」すると哲学者も名のった。「余はディオゲネスであるぞ」大王はあきれてきいた。「私を恐れないのか」「善いお人か」「そうだ」「善い人を恐れる必要はない」大王はかさねて言った。「私に何かしてもらいたいことはないか」「そこをどいて下さい。日向ぼっこの影になる」
大王は何ものにも恐れない哲学者に、すっかり感心して、「私はもしアレクサンダーでなかったら、ディオゲネスになりたい」と言ったという。
自画に題す 夏目漱石
幽居 人到らず
独座 衣の寛なるを覚ゆ
偶(たまたま)解す 春風の意
来たりて吹く 竹と蘭と
江戸で初鰹が珍重されるようになるのは元禄以降で、宝暦・天明ころそのブームは頂点に達し、化政期にはやや鎮静化したという。一般庶民にとっては大変高額で、口にはできないものだった。蜀山人は山口素堂の「目に青葉 山ほととぎす 初がつお」という有名な句をもじって「目に青葉 耳に鉄砲 ほととぎす かつおはいまだ 口へはいらず」と歌っている。
ある夏の日曜日、勉強に飽きた僕は、友だちといたずらを考えだす。ラブレターをでたらめに書いて、町に出て、一番はじめに出会った女性に、その手紙を出すことにしょう、相手がどんな女の人でも、運だめしなのだから、途中でやめてはいけない、と約束する。
僕は、子犬を連れた、変わり者の女性に出会う。友だちはおびえるけれども、僕はむきになって、その女性に手紙を渡した。彼女は手紙を受け取って行く。その手紙をほんとうのラブレターだと思われても困るし、そのいたずらを学校の先生に報告されると、叱られるであろう。
しかし、その女性は、誰にもそのことは話さなかった。彼女の沈黙のために、僕は救われたのだった。やがて何十年が過ぎて、僕は医者になり、大きな戦争がおこった。その女性が不幸で困っていると噂に聞き、僕はその女性を援助をすることができた。(カロッサ「青春のうつりかわり」)
むかし、丹波の多紀の郡の人と、摂津の伊丹の人とが、ほらの吹きくらべをしました。まず丹波の人が「丹波にゃ、三嶽山という高い山がある。その山のてっぺんに三本の大竹が生えとるが、冬になって雪がふると、その竹がしわって先っちょが丹後の宮津につかる。春になって雪がとけて、竹が立ったときには、その葉に蛤がぎっしりとついていて、三嶽山のてっぺんに蛤の山ができる」といばりだした。すると伊丹の人は、「伊丹には酒屋がぎょうさんあって、そこには大けな酒樽があって、その酒樽のまわりはどれくらいかというと、三里から四里にもなる」とやり返した。そこで、丹波の人が、「その酒の樽の輪はどうして作る」と問いかけましたら、ぐっとつまって、「そりゃ、丹波の三嶽山の竹で作る」といったので、伊丹の人が負けたそうな。(兵庫県多紀郡)
昭和9年、近衛文麿の長女・近衛昭子(1916-2004)は、島津公爵家当主・島津忠秀(1912-1996、水産学者)へ18歳で見合い結婚で嫁入りしたが、夫とは性格的にあわなかった。近衛公が出頭期限の日に服毒自殺したのは昭和20年12月。それから2年後、昭子はついに離婚を決意し、昭和22年12月には整体師・野口晴哉(のぐちはるちか、1911-1976)と駆け落ちし、「昭和のノラ事件」と呼ばれた。斜陽族の恋愛結婚が戦後世相の話題になった。
輪舞(ロンド)
世界のむすめが手に手をとれば
海のまわりに輪舞が出来るよ
世界の子供が水夫になれば
海越えて、その舟橋がきれいに出来るよ
そこで世界のひとたちが、みんな手に手をとったなら
地球のまわりをひとまわり、輪舞おどりが出来ましょう。
ボール・フォール(1872~1960) 山内義雄訳
NHKサービスセンターの「テレビ50年」(平成15年)というムックを読む。連続テレビ小説、大河ドラマ、紅白歌合戦などこの半世紀わたしたちはNHKの番組を通じて教養・文化・娯楽を享受してきた。そして50年の歳月にはテレビを囲んでみんなで見た家族団欒の楽しい思い出がある。このブログ名もNHKの番組から拝借している。だが「テレビ50年」の資料一覧を何度もさがすのだが、なんと「アイウエオ」が掲載されてないのである。そこでどんな番組であったかをおぼろげな記憶ながら紹介する。放送年は昭和43年。総合テレビ夜6時から6時30分。出演は堀勝之祐、渡辺康子、武岡淳一、上原ゆかり、中村雅子。それに大物スターとして木村功、織本順吉ら青俳の役者がでている。内容は幕末の時代で北海道の蝦夷地での木村功の物語ではじまるが、実際の主役は息子役の堀勝之祐である。いまは声優で有名であるが若き日の堀の力強い声の魅力で明治の気骨が表現されていた。札幌農学校時代の内村鑑三や新渡戸稲造らも登場するが、堀はアメリカへ留学し帰国する。織本に何を学んだか聞かれ、アメリカで音楽を学んだという。あきれ顔の織本が印象に残る。明治iに西洋音楽を導入した教育者・伊沢修二も登場する。しかし堀のモデルは誰か定かでない。脚本家はかなりすぐれた人だと思う。この年は明治100年で企画されたものだろう。感動的なシーンが多かったが細かい点は覚えていない。なぜ昭和43年を覚えているかというと、土曜日7時は日本テレビの「巨人の星」があったからだ。「アイウエオ」をみたあと、さらに「巨人の星」でモーレツに感動したものである。もちろん「巨人の星」はDVDを持っている。しかし本当に大人になったいまもう一度みたいドラマは「アイウエオ」である。
なぜこのような名作の連続ドラマが資料から漏れたのか不可解である。「NHK年鑑を基に作成したもので、すべての番組が掲載されているわけではありません」と断りがあることから、若い担当者が機械的にリストアップしたものなのだろう。考えるに番組の放送時間帯から子供向けドラマとしての評価か。実際に青少年にふさわしい内容だったので類似番組が少ないだけに割愛されたのは惜しい。他にも子供向けだが柔道家の徳三宝のドラマを見た記憶があるが、やはり「テレビ50年」には見当たらなかった。
わたしは若い頃、岩野次郎先生の授業を聴講したことがあります。先生はソフトボール協会などで知られた方で、関西大学では昭和38年から必須科目である「保健体育」を講義されましたのでなかにはご記憶の方もいらっしゃるだろう。だが当時は教授の経歴などはほとんど無関心であり、ただ老教授という印象であった。「保健体育の原論」という先生の著書を読み直すうちに、師が理論と実践の人であり、その業績に関心を持つようになった。これも最近になり知ったことの一つであるが、日本での学生ハンドボールの普及に貢献されたというあまり知られていない業績があった。
岩野次郎(明治37年生)は昭和11年、岡山県の体育運動主事に赴任。岩野の指導によりハンドボールが県下の学校に普及した。そして昭和12年11月21日、第1回東西対抗(国民精神作與体育大会関西大会)が南甲子園運動場でおこなわれた。女子対抗戦の決勝は岡山県倉敷高等女学校が生野高等女学校を8対4で破って優勝した。これが学生ハンドボールの最初の公式試合である。
ブログ開設から1週間がたちました。このブログを見ていただいたり、コメントを送ってくださったり、多くの皆さん ありがとうございます。ケペル先生とは昭和36年4月から昭和44年3月まで放送されたNHKの子供番組「ものしり博士」に登場する人形の博士のことで「何でも考え何んでも知って、何でもかんでもやってみよう」という言葉がとても印象にあってブログ名に即座に使用しました。(ちなみに助手はマーブルチョコレートで有名な上原ゆかりちゃんです。ベレー帽が可愛かったですが、いまごろどうしてるかなあ・・・)後でわかったことですが、「ケペル先生」というブログがほかにもいくつかあることを知りましたが、重なってすみません。同世代の人にとても影響をあたえた番組なんでしょうね。わたしは36年の最初から見ていた世代ですが、8年というのはかなり長寿番組なので6歳年下の妻もかすかに知っているとのことで、推定年齢55歳から45歳くらいまでが、ケペル先生=ものしり博士と連想できる世代です。このブログ名が本人結構気に入ってますのでこのまま変えずにいこうかと思います。「ケペル」はイタリア語のPerche(なぜという意味)からの造語だそうです。
このブログのカテゴリーというか範囲に関してですが、あまりしぼるとネタ切れしそうなので、世の東西を問わず、森羅万象の事物を取り扱います。博覧強記のケペル先生は独学であらゆる分野の研究をしています。いわゆる巷の「専門なき専門家」です。一見雑学の羅列のようですが、小石を積み重ねて裾野を広くして富士山を築くことを夢みています。
浅川巧の名前を知ったのはつい最近のことだが、鎌田東二「浅川巧と朝鮮民族美術館設立運動」春秋2006年6月№479)が目につき読む。宗教学者で知られる鎌田ですら最近になって浅川伯教・巧兄弟の記念館を行って来たそうだから、浅川巧ブームと言えるような状況はまだまだ始まったばかりのようだ。でもこの論稿で浅川巧の生涯の概略は知ることができる。だが現代のわれわれに与えられた問題は浅川のもっと内面的・思想的なことを深く知らなければ意味がないと思う。浅川研究は緒についたところというべきか。
石原武政の「論理によって納得できるか」(書斎の窓2006年6月№555)を読む。著者は長年にわたり論理学を学び、論理をもって考え、論理をもって議論し、論理をもって人を説明する、理屈屋を自認している。だが論理によってすべて相手を納得できるものではないことに気づいた。理屈ぬきで納得できることもある。感覚的にしつくりこなければ収まりがつかない。感覚の論理化をめざしているらしい。著者はそのことを囲碁でもって説明する。わたしは囲碁はしたことがないので説明にはあまりピンとこない。だが論理と感覚の説明で、ふと遠いむかしのことを思い出した。若い頃昼間は図書館で働き、夜間は大学に行っていた。大学の先生は東洋法制史が専門で古代の木簡、たとえば居延漢簡などを研究していた。そのことを館長に話すと二人は昭和20年代に三田の高校でともに教師をしていたころの仲間だという。そこでわたしが契機になって2人は20年ぶりで再会した。館長は趣味の域をはるかに超えた有名な前衛書道家だった。(後年アメリカで前衛書の普及活動をしている)前衛書の作品の多くは見ても何という文字であるか判読できない。わたしは「前衛芸術はわかりません」と率直にいうと館長は「わかろうとせずに感じればいいんだ」という。あるとき「書道辞典」という大著が刊行された。この本には法帖だけでなく近年中国で多数出土した木簡の項目もあったので先生にみせた。先生の話では「書道家の釈文には文字の誤読が多いという。おそらく前後の文章の脈絡や資料の歴史的な背景をあまり考慮していないからだろう。木簡はこれまでの史記・漢書などの文献資料の不足を補う新たな同時代の記録・文書なので文字を判読し正しい意味を知ることが大切である。」と。つまり同じ文字を見ても、書道家は感覚的に美を感ずる、歴史家は文字を判読し論理的に歴史的体系化として構築するのが究極の目的なのだ。その両者の相違は平行線であり、「論理と感覚の一体化」とは永遠に不可能なことなのだと若い頃感じたものである。
図書館雑誌第1号(明治40年10月号)による、全国図書館一覧表には、官立9、公立50、私立111、総計170館が記されている。そのうち愛知県下には公立1、私立2館、計3館が紹介されている。
公立の「海東郡立戦勝記念図書館」は明治28年創立の現・津島市立図書館と考えられる。図書館雑誌の記事によると「津島町立津島小学校内に設置せる海東郡立図書館を、海東郡立戦勝記念図書館と改称の旨、去る4月その筋へ開申せり」とある。
問題はあとの2館であるが、その後の所在が不明である。「西加茂郡教員組合会付属図書館」(私立)西加茂郡與母町、「私立日露戦争戦役記念黒川図書館」(私立)西加茂郡富貴下村下川口
残念ながら図書館雑誌の第1号には記載されることはできなかったが、愛知県にはその数年後3館の図書館が設立される。明治42年に常滑市、明治45年に豊橋市、岡崎市と合計4館の公立図書館があった。この時代の図書館は、有料制をとり館内閲覧を原則とした。参考までに明治45年の豊橋市立図書館の閲覧料を記す。
普通閲覧料 として1回券は2銭,10回券は12銭,30回券は30銭。特別閲覧券(館外貸出し)として1回券は5銭,10回券は30銭と定められた。当時の郵便料金は封書が3銭,葉書が1銭5厘であったから、この閲覧券の時価が理解できるであろう。
学科目及び試験方法について山下栄は 「司書試験は先に筆記試験を行い、之に合格したる者に対して引き続いて実地試験が課せられ、中間の休みを通算すれば前後を通して9日間で終了する」と記している。なんと9日間も試験があるとはすごすぎる!!
試験科目が8科目。1.国民道徳要領 2.国語漢文 3.国史 4.外国語(英、独、仏のうち一つを選択) 5.図書館管理法 6,図書目録法 7,図書分類法 8.社会教育概説
各種検定試験に比して相当広範囲である。図書館員必備の知識としてはこのほか哲学的科目、書誌学、第2外国語が要求されるが現在は加えられていない。
専門科目の検定委員に次の7委員の氏名が記されている。 今沢慈海, 松本善一,中田邦造,太田栄次郎,田中敬,加藤宗厚,不和祐俊。
もつとも受験者にとって関心のある記述は司書試験受験対策の項であろう。ここでも親切に各部門の対策として参考書などもあげている。たとえばもつとも重要な科目は「図書館管理法」であろうが8冊をとりあげている。ここでそのうちの3冊を紹介する。
今沢慈海「図書館経営の理論及実際」叢文館 大15年/毛利宮彦「図書の整理と運用の研究」図書館事業研究会 昭11年/和田萬吉「図書管理法大綱」丙午出版社 大11
試験方法であるが、筆記は1日2科目づつ行い4日間で終了する。合格者はさらに4日目に発表され、翌日実地試験がある。実地は図書館事務に関し行われることになっており、口頭試問が行われる。これではまるで巨人軍にテスト生で入団するような難関でないだろうか。
このような厳しい検定試験をパスして図書館現場ではたらいていた戦前の司書たちに、わずか8年後、敗戦による資格失効という状況がまちかまえていた。検定試験の合格者たちは1946年の公立図書館職員令改正によって実質的効力を失った。そして1950年の図書館法附則第2項により廃止された。
さて 山下栄(当時44歳)は昭和26年に第1回図書館専門職員養成講習(東大)で受講し、晴れて図書館法による司書資格を取得した。これを後世の学者たちは「現場からの猛反発」とか「既得権の擁護」として非難しているのである。図書館員にそれぞれ喜びも悲しみも幾年月、山あり谷ありの人生がある。エリートたちの机上の理論だけでかだずけるにはなんとも承服しがたいものが古参の図書館員にはあるのだ。
高山正也のわが国の司書に対する評価の低さを昨日ご紹介した。司書の養成と教育は、現在大学教育の系列で行われているものと、文部大臣が各大学に委嘱して行う司書講習と呼ばれているものとが並行して行われている。司書講習は公共図書館の専門職員の養成が目標であり、1950年開設当初の教育課程は当時における現職者の再教育のために編成されたものであった。このような現行からの移行措置を「既得権の擁護」として断罪しているのである。ただわが国の司書職制度を論ずるのであれば戦後からではなく、戦前にさかのぼって論究する必要がある。1906年の「改正図書館令」によって初めて「司書」の任用資格と、館長・司書・書記の職制が規定された。1933年には図書館令・公立職員令の大改正があり、その職員令の中に司書検定試験に関する一項が新設された。山下栄(1907-1979)は戦後神戸市立図書館、尼崎市立図書館長と歴任されたが、若い頃の司書検定試験の体験をもとに「司書検定試験受験ノ栞」(昭和13年)を「図書館研究11-4」に発表している。この試験の特色はなんと受験資格を一切問題にしないことである。山下の文によれば「蓋し文部省の英断であろう。自学自習を原則的に建前とし生命とする我が図書館界にあって尚且つ、受験資格を云々している時代ではなかろう。志ある者に対し機会を均等にし門戸を開放すべきである。」と賞賛している。ところが実際の受験者はさほど集まらなかった。昭和11、12年度あわせて60人に対して35人が合格している。山下は第2回の昭和13年2月に合格している。31歳であった。18歳で今治市立明徳図書館へ書記官として勤務し、23歳で文部省図書館講習所で1年間学ぶ。24歳で大阪帝国大学付属図書館で在職中の31歳のときに合格したのである。どんなにうれしかったかことか推察できる。後輩諸生のために克明なる受験必勝法を執筆したのである。詳しい内容は項を改めて紹介することにする。
公文書館における適正な保存や利用のための体制整備が検討されている。高山正也(:慶応義塾大学)は「他山の石か、前車の轍か:参考にしたい図書館の経験」(アーカイブズ・ニューズレター№3,2005年9月)で「半世紀前の図書館の失敗を繰り返さないために、アーカイブズの世界では既得権の擁護にこだわらず、関係者が高い識見と自律性をもって、高度な目標の実現に邁進されるであろうことを期待している」と論じている。高山のさす司書の「既得権の擁護」というのは、占領軍はアメリカ型の図書館員を養成するために、学部レベルでジャパン・ライブラリー・スクールを創立し、司書の教育を託そうとした。ここで、図書館の現場から、猛反発が起こった。既存の図書館員が、わずか2ケ月の講習を受ければ司書資格が得られるという司書講習という便法を編み出した。これは現職者を救済するための当分の間のみ開催されるはずのものであったのだが、いまだに存在し続け、司書の労働市場における供給過剰の一因となっている。資格取得者の図書館への就職率は2003年調べで、1%を大きく下回っている。高山の意見では現行の図書館界における専門職員の養成には問題があり、アーキヴィストの養成にはさらに高度な専門性をもった職員の必要性を提唱しているのである。
詩人は世界の非公認の立法者である
シェリー
シェリーは体系的詩論「詩の擁護」で、詩の想像力の優位と、それの道徳的機能を主張した。この詩論の最後の一節に「詩人は世界の立法者である。」という有名な言葉がある。詩人は、詩をとおして人間の想像力に生気を吹き込むことによって、社会制度に影響を与えることができる、と主張している。
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