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2006年6月29日 (木)

バッカイタラ

   アイヌがこどもを背負うときに使う編み紐、バッカイは子をおぶう、タラは編み紐を意味している。紐の両端に近いところに、短い木の棒をわたしてしばったもの。背負う者が着ている着物の中でこどもを背負い、着物の外側からバッカイタラの木の棒に、こどもの尻をのせる。紐の中央部分を背負う者の額にかけて、紐の両端は前にまわしてしばる。イェォマブという地方もある。(参考:萱野茂『アイヌの民具』1978)

2006年6月28日 (水)

小森和子とジェームズ・ディーン

   「映画の友」昭和31年9月号を読む。表紙はマリリン・モンロー。記事は淀川長治「エリア・カザンはじめてのシネマスコープ色彩映画 エデンの東」を紹介。しかしこの時まだ淀川は試写を見ていない。

    小森和子の「このところお賑やかな新入生教室   その名を覚えるのが困難なほど新型ぞくぞくと登場、さて、貴方の最新型のごひいきは誰?」という記事がそそられる。「実生活ではいろいろとお差支えも生じましょうが、映画の上でなら浮気もお好きな放題、どうぞご迷惑も税金のかかりようもありません。そこで、うだるような今日このごろのつれづれに、居ながらにして多情仏心の楽しさわ味わうのも鎖夏の一策。今月は私も夏休みをいただいてせめてそのご案内役なとつとめましょう。ここにご紹介します面々は、いずれも近き将来にスターダムにのしあがらんとする新人たち」「ところでうち見たところ、ズバ抜けた美男美女といえるほどの人はいませんね。しかし、みなそれぞれにひとくせもあり、心惹くものを持っています。これがいわゆる個性的魅力というものではないでしょうか」といい、先ずトップがなんと、アーネスト・ボーグナインだ。(ただし写真なし)アルド・レイ、ウィリアム・キャンベル、ベン・クーパー、ラス・タンブリンとつづいて、ジェームズ・ディーンが登場する。「まだ本もの(映画で)にはお目にかかりませんが興味シンシンなのはエデンの東のジェームズ・ディーン。前評判は二代目マーロン・ブロンドとのことですがモンティ・クリフト的なものが感じられます。5尺10寸に155ポンドというきゃしゃな体つきとなにか物憂そうな眼つきがそう想わせるのでしょうか。早くから母を失いインディアナ州フェアモントの叔父の農場で育ったというこの若者には今からいとおしさが感じられてなりません」小森のおばちゃは、すでに映画を見ずして、ジミーに「ビビビ・・・」と感じたのだ。

三分の侠気 一点の素心

友に交わるにはすべからく三分の侠気を帯ぶべし。

人となるには一点の素心を存するを要す。

『菜根譚』の著者・洪自誠(こうじせい)については、明の万暦年間の人で、名を応明、号を還初道人といったというだけで、それ以外のことはいっさい判らない。

(通釈)侠気を持たないものには友との交わりはできない。純粋な気持ちをすっかり失ってしまっては人としての成長は望めない。(参考:『菜根譚』神子佩・吉田豊訳 徳間書店)

2006年6月27日 (火)

狗子仏性(くしぶっしょう)

ある僧が、趙州従諗(じょうしゅうじゅうしん)に尋ねた。

「犬のようなものにも、仏の性質はありますか」

「ない」

「なぜないのですか」

「自分に仏の性質があることを知らないからだ」

 ( 『無門関』第1則 『従容録』第18則)

  

申包胥(しんほうしょ)

   春秋時代の楚の大夫。伍子胥と親しかったが、伍子胥が呉に亡命するにさいし、「必ず楚を倒す」と言ったのに対し、申包胥 は「必ず守ってみせる」と答えた。やがて伍子胥は呉軍とともに楚都に入城、楚の平王の墓をあばいて屍に鞭うった。申包胥は伍子胥に手紙を送って、その行為をなじり、いっぽう、みずから秦におもむいて援助を乞い、七日七晩泣きつづけて、ようやく秦の哀公の心を動かし、その援助によって呉軍を破った。(参考:『史記小事典』徳間書店)

2006年6月26日 (月)

日本最古の閘門式運河

    徳川川吉宗の意をうけた井沢弥惣兵衛(いざわやそべい)は、武蔵野国の見沼干拓(さいたま市)のため見沼代用水を完成させると、周辺の村と江戸を水運で結ぶため、用水路と排水路をつなぐ見沼通船堀の開削に着手。用水路と排水路には3mの落差があるため水門を設けて水位を調節し、船をさかのぼらせる工夫がされた。1731年、こうして日本最古の閘門式運河が誕生した。(参考:『図説日本史』東京書籍)

晏嬰の狐裘(こきゅう)

   晏子(名は嬰)は斉の国の総理大臣でしたが、きわめて倹約にして、ひたすら国政に励んだので、非常に重んぜられました。その倹約ぶりといったら、着物といっては、狐の皮衣一枚きりで、それを30年も着通しました。また家の祭りをするにしても、それに使う豚の肩肉はほんのわずかで、たかつきに一杯になるほどはありませんでした。けれども、一方、他人にはきわめて恵み深くて、斉の国の人で、彼の世話になって暮らしをたてている家族が70あまりもありました。(参考:細田三喜夫『漢文故事小事典』)

錠前師の密告

   ルイ16世は1792年8月に錠前師ガマンを招いて壁に秘密棚をつくらせた。その帰途ガマンは激しい腹痛を覚え、はかられたと思って密告した。その棚から押収された書類で王とミラボー、ラファイエットとの内通関係がばれ世論は王に不利となった。

旧約聖書の名前

    アイザック・アシモフの『雑学コレクション』によると、「旧約聖書は二千年にわたる歴史だが、そのなかの人名はみなちがう。息子に、父や祖先の名をつけるといった重複はない」とある。

   イエス、ヨセフ、ゼルバベル、エルヤキム(ヨヤキム)、ヨシア、ソロモン、ダビデ、エッサイ、ユダ、モーセ、アロン、ミリアム、アムラト、ケハト、レビ、ガド、アシュル、ルベン、イサカル、シメオン、セブルン、ディナ、ヨセフ、ベニヤミン、ダン、ナフタリ、ヤコブ、イサク、アブラム(アブラハム)、イシュマエル、エサウ、モアブ、ベン・アミ、ロト、イスカ、ハラン、アブラム(アブラハム)、テラ(アザール)、ペレグ、ヨクタン、エベル、シェラ、アルバクシャド、エラム、アシュル、ルド、アラム、セム、ハム、クシュ、ミツライム、ブト、カナン、ヤフェト、ノア、セト、アベル、カイン、アダム

   主要人名を並べたが、旧約聖書に記されたイエスの系統は、イエスからダビデへ、ヤコブからアブラハムへ、アダムへと収斂する。

2006年6月19日 (月)

スラボフィールとザパドニキ

  1830年から1870年にかけてロシア国内では、スラボフィールとザパド二キの対立があり、ロシアのインテリゲンチアはこれら両者のいずれかに所属していた。スラボフィール(スラヴ主義者)は、ロシア文化とギリシア正教の優秀性を強調して、西欧化に反対した。他方では、理想主義的デモクラシーを説き、農村に自由を見出した国粋主義者たちで、汎スラヴ主義に接近した。

   ザパドニキ(西欧主義者)は、農奴制の廃止を叫び、人間生活の合理的再建を主張した。目標とするところは、西欧的な議会政治と資本主義体制、個性の解放であった。しかしゲルツェンも西欧への幻滅からミール制を基にした社会主義を主張するようになる。

   1870年代にはミハイロフスキーら若い運動家は「人民の中へ」(ヴ・ナロード)をスローガンに農村へ出向き、ミールを基礎とする社会主義の実現化を目指す革命的急進主義ナロードニキが生まれる。

顰(ひそみ)にならう

   春秋時代に、西施という美人がいました。この美人は、のちに呉の夫差という王様に寵愛された人ですが、まだ郷里の村にいた頃のことです。

   ある日、胸が痛んだので、家で眉をしかめておりました。ところが、それが日ごろにもまして美しく見えました。すると、それを見た村の醜婦たちは、眉をしかめると美しく見えるのだと思って、わが家に帰ると、自分たちも胸をかかえ眉をしかめて歩きまわりました。ところが、美しく見えるどころか、普段よりも醜く見えて、いや、もう、二目と見られぬ顔になりました。そこで、村の金持ちたちは、堅く門をしめて、一歩も外へ出ませんでした。また、貧乏人たちも、妻子を連れて、逃げ出しました。(参考:細田三喜夫『漢文故事小事典』研究社 1956年)

ラス・カサスの告発

   スペイン人の聖職者ラス・カサスは、16世紀前半に中米でキリスト教の布教をおこなったが、聖戦の名を借りたインディオ虐待に批判の目を向け、『インディアスの破壊についての簡潔な報告』を著した。この書は、インディオ虐待の実態を報告し、征服戦争中止を訴える内容であったが、西洋諸国による反スペイン運動に利用された。しかし、彼のインディオ擁護運動は、後のラテンアメリカ独立運動に大きな影響を与えた。

尾生の信

   春秋時代に、尾生という若者がいた。ある日、女と橋の下で会う約束をして、先に行って待っていた。ところが、いつまで待っても、女は来ない。それでも、尾生は、約束してあるのだから来ないはずはないだろうと思って、なおも待ちつづけた。そのうちに、水が出てきた。それでも、なお、女を信じて、帰ろうとはしなかった。やがて、ますます、水が出てきた。すると、流されないように、橋の柱につかまって、待っていた。そのうちに、とうとう、尾生は溺れ死んでしまった。(参考:細田三喜夫「漢文故事小事典」研究社 1956年)

樽の中の哲学者

   アレクサンダー大王がギリシアを征服してコリントにやって来た。大勢の有力者たちがごきげんをうかがいにやって来たが、有名な哲学者のデイオゲネスはやって来なかった。そこで大王はみずから会いに行った。ディオゲネスは横になって日向ぼっこをしていた。大王は哲学者のそばにあゆみ寄って名のった。「余は大王アレクサンダーであるぞ」すると哲学者も名のった。「余はディオゲネスであるぞ」大王はあきれてきいた。「私を恐れないのか」「善いお人か」「そうだ」「善い人を恐れる必要はない」大王はかさねて言った。「私に何かしてもらいたいことはないか」「そこをどいて下さい。日向ぼっこの影になる」

   大王は何ものにも恐れない哲学者に、すっかり感心して、「私はもしアレクサンダーでなかったら、ディオゲネスになりたい」と言ったという。

2006年6月15日 (木)

閑居偶成

    自画に題す    夏目漱石

 幽居 人到らず

 独座 衣の寛なるを覚ゆ

 偶(たまたま)解す 春風の意

 来たりて吹く 竹と蘭と

初がつお

 江戸で初鰹が珍重されるようになるのは元禄以降で、宝暦・天明ころそのブームは頂点に達し、化政期にはやや鎮静化したという。一般庶民にとっては大変高額で、口にはできないものだった。蜀山人は山口素堂の「目に青葉 山ほととぎす 初がつお」という有名な句をもじって「目に青葉 耳に鉄砲 ほととぎす かつおはいまだ 口へはいらず」と歌っている。

沈黙の秘密

  ある夏の日曜日、勉強に飽きた僕は、友だちといたずらを考えだす。ラブレターをでたらめに書いて、町に出て、一番はじめに出会った女性に、その手紙を出すことにしょう、相手がどんな女の人でも、運だめしなのだから、途中でやめてはいけない、と約束する。

 僕は、子犬を連れた、変わり者の女性に出会う。友だちはおびえるけれども、僕はむきになって、その女性に手紙を渡した。彼女は手紙を受け取って行く。その手紙をほんとうのラブレターだと思われても困るし、そのいたずらを学校の先生に報告されると、叱られるであろう。

 しかし、その女性は、誰にもそのことは話さなかった。彼女の沈黙のために、僕は救われたのだった。やがて何十年が過ぎて、僕は医者になり、大きな戦争がおこった。その女性が不幸で困っていると噂に聞き、僕はその女性を援助をすることができた。(カロッサ「青春のうつりかわり」)

ほらくらべ(民話)

 むかし、丹波の多紀の郡の人と、摂津の伊丹の人とが、ほらの吹きくらべをしました。まず丹波の人が「丹波にゃ、三嶽山という高い山がある。その山のてっぺんに三本の大竹が生えとるが、冬になって雪がふると、その竹がしわって先っちょが丹後の宮津につかる。春になって雪がとけて、竹が立ったときには、その葉に蛤がぎっしりとついていて、三嶽山のてっぺんに蛤の山ができる」といばりだした。すると伊丹の人は、「伊丹には酒屋がぎょうさんあって、そこには大けな酒樽があって、その酒樽のまわりはどれくらいかというと、三里から四里にもなる」とやり返した。そこで、丹波の人が、「その酒の樽の輪はどうして作る」と問いかけましたら、ぐっとつまって、「そりゃ、丹波の三嶽山の竹で作る」といったので、伊丹の人が負けたそうな。(兵庫県多紀郡)

2006年6月13日 (火)

斜陽族の自由恋愛

    昭和9年、近衛文麿の長女・近衛昭子(1916-2004)は、島津公爵家当主・島津忠秀(1912-1996、水産学者)へ18歳で見合い結婚で嫁入りしたが、夫とは性格的にあわなかった。近衛公が出頭期限の日に服毒自殺したのは昭和20年12月。それから2年後、昭子はついに離婚を決意し、昭和22年12月には整体師・野口晴哉(のぐちはるちか、1911-1976)と駆け落ちし、「昭和のノラ事件」と呼ばれた。斜陽族の恋愛結婚が戦後世相の話題になった。

2006年6月11日 (日)

お手々つなげば世界は一つ

   輪舞(ロンド)

世界のむすめが手に手をとれば

海のまわりに輪舞が出来るよ

世界の子供が水夫になれば

海越えて、その舟橋がきれいに出来るよ

そこで世界のひとたちが、みんな手に手をとったなら

地球のまわりをひとまわり、輪舞おどりが出来ましょう。

  ボール・フォール(1872~1960) 山内義雄訳

2006年6月 9日 (金)

浅川伯教・浅川巧兄弟

浅川巧の名前を知ったのはつい最近のことだが、鎌田東二「浅川巧と朝鮮民族美術館設立運動」春秋2006年6月№479)が目につき読む。宗教学者で知られる鎌田ですら最近になって浅川伯教・巧兄弟の記念館を行って来たそうだから、浅川巧ブームと言えるような状況はまだまだ始まったばかりのようだ。でもこの論稿で浅川巧の生涯の概略は知ることができる。だが現代のわれわれに与えられた問題は浅川のもっと内面的・思想的なことを深く知らなければ意味がないと思う。浅川研究は緒についたところというべきか。

2006年6月 4日 (日)

詩の想像力

詩人は世界の非公認の立法者である

                シェリー

 シェリーは体系的詩論「詩の擁護」で、詩の想像力の優位と、それの道徳的機能を主張した。この詩論の最後の一節に「詩人は世界の立法者である。」という有名な言葉がある。詩人は、詩をとおして人間の想像力に生気を吹き込むことによって、社会制度に影響を与えることができる、と主張している。

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